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あんのうんさん脚本回のデデデとエスカルゴンの関係の考察

今回はあんの うんさん脚本回のデデデとエスカルゴンについて語ります。

このペンネームの区切りからするとあんのさんって書くべきなのかもしれないが、このブログの文章では、あんのうんさんで統一。
名前の意味は"unknown"(不明な)だろう。この明らかに伏せてあると思われるペンネームの、脚本家の正体はわからない。
wikipediaには、ベテラン脚本家Hさんの変名であると書いてあるが、その根拠が不明。
(これについて、なんらかの公式発表を知っている方はコメントください)
新人がメインを張るとは思えないので、ベテランの変名ではあるだろうが。
もし、人違いだったら、あんのうんさんとHさんの双方に失礼だろう。
だから、このブログでは「正体不明な人」という扱いで通す。


アニメ版『星のカービィ』で、あんのうんさんが担当した回は、以下の16話。

第33話 え〜っ! 宇宙のゴミ捨て場
第37話 お昼のデデデワイドをつぶせ!
第39話 忘却のエスカルゴン
第43話 ヒツジたちの反逆
第50話 貯めるぞい! のろいの貯金箱
第51話 センチメンタル・カービィ
第55話 ある愛のデデデ
第57話 パイを笑う者はパイに泣くぞい!
第63話 師走のカゼはつらいぞい!
第68話 勝ち抜け! デリバリー時代
第70話 トッコリ卿の伝説
第78話 発進! エスカルゴン・ロボ
第79話 ボンカースあらわる!
第86話 弟子対決! コックナゴヤ
第88話 はだかのエスカルゴン
第95話 デビル・カービィ!

途中から参加して、最後まで活躍した脚本家。
また、参加してすぐにエスカルゴンの担当者になり、最後までつとめた。

脚本の特徴

暴力と虐待
メタナイトに拷問されるエスカルゴン、エスカルゴンにハンマーで殴り倒されるデデデ、デデデに酷使されるエスカルゴン、デデデに暴力で裸にされかかるエスカルゴン。デビル・カービィに襲われて自分もデビルになってカービィを殴りまくるデデデ。

憑依
また、悪魔憑き(憑依)の話が、この人の担当回に多い。第39話 忘却のエスカルゴン、第43話 ヒツジたちの反逆 、第55話 ある愛のデデデ、第63話 師走のカゼはつらいぞい!、第79話 ボンカースあらわる!、第88話 はだかのエスカルゴン、第95話 デビル・カービィ! がそれだ。

人を食った話
それと「食うか食われるか」の話が多い。第43話 ヒツジたちの反逆(羊がデデデの夕食にされかかる)、 第50話 貯めるぞい! のろいの貯金箱(デデデがカービィに吸い込まれる)、第57話 パイを笑う者はパイに泣くぞい! (カービィ、デデデ、エスカルゴンの三名が魔獣に飲み込まれる)、第63話 師走のカゼはつらいぞい!(デデデがカービィを飲み込む)、第70話 トッコリ卿の伝説 (デデデとエスカルゴンがサメに追い回される)、第88話 はだかのエスカルゴン (マイマイゴンがカービィを食べようとする)、第95話 デビル・カービィ! (デデデが大蛇にのまれる)。
もちろん、デリバリー回やコックナゴヤ回のような、普通の食べ物回もある。


原作の『星のカービィ』を「敵を食べまくり、殴り倒し、何かに憑依された相手を倒したりするゲーム」だと解釈するなら、これで間違っていないような気もする。


あんのうん脚本回のデデデとエスカルゴンの特徴

あんのうん回の両者の特徴は「きれい好き」ってことだろうか。
第33話ではエスカルゴンはゴミで汚れたデデデをお風呂に入れようとするし、装甲車もワドルディにきれいに洗えと命令する。デデデはお風呂に入った後、香水までつける。
第39話では、エスカルゴンは朝起きて丁寧に身繕いをし、デデデの謁見室の掃除をしている。はたきは日本にしかない掃除用具なので、海外展開を考えたら布で椅子を拭くべきだったかも。
第55話では、とりつかれた状態とはいえ、デデデがモップで掃除をする。
第78話はエスカルゴンが掃除を言いつけられる話だ。

言動からするに、あんのうんデデデもあんのうんエスカルゴンも、それほど臆病じゃない気がする。
例えば第51話「センチメンタルカービィ」の時に、自ら花火として打ち上げられている。周囲の解説を信じるなら、そうなる。脚本としてはカービィに対する彼らの好意というものを表現したかったのだろうけど、すごい勇気だよね。なんかの手違いだろうか。
もっとも原作のゲームでは、大砲は普通にカービィの移動手段だ。アニメ以降の作品だが、トリプルデラックスでも、デデデはカービィの背中に隠れようとするような臆病者ながら、大砲には平然と入る。
51話の描写については後に第64話 「新春! カービィ・クイズショー」で、吉川監督が花火として打ち上げられる時に、「やめるぞい」と怯えまくるデデデとエスカルゴンを長く描写していたから、視聴者にはそっちの印象の方が強いかな。


あんのうん回のデデデとエスカルゴンの関係

デデデの暴力と接触場面のリストに付属する考察でも書いたが、あんのうん脚本ではデデデは明確に虐待者。吉川脚本だとデデデは殴りまくりだけど、手をとりあって喜んだり、もぎゅっと抱き合える仲でもある。吉川脚本はもちろん国沢脚本も、両者がべたべたしているのは「自立心皆無の幼児性の発露(ひとりがいや)」で、説明はつく。しかし、あんのうん脚本だとそういういちゃつきが少ない。

あんのうん脚本だとそういう癒やす役割は、カービィが引き受けている。忘却のエスカルゴンでは、エスカルゴンがカービィをぎゅーっと抱きしめる場面がある。エスカルゴンロボの最後の場面では、カービィとエスカルゴンが添い寝している。

これが吉川デデデなら、自分の目の前でエスカルゴンが誰かと添い寝していたら、即座にどっちかを殴りそうだな。

たぶん、脚本家の年齢と関連しているのだろうが、あんのうん脚本の方が、吉川脚本よりデデデとエスカルゴンの関係が若い。吉川脚本だとお互いに相手を自分のものだと思っているコンビの関係が、すでに成立していて、始終ふれあうことでそれを確認しつつ、相手の浮気に目を光らせているような状態。非対称な関係なので、エスカルゴンは自分をデデデのものだと思っている、と言ってもいい。

片思い路線のあんのうん脚本だと、デデデはまだエスカルゴンのものじゃないし、エスカルゴンはまだデデデのものじゃない。
まあ、ことあるごとに殴られまくり、抱きしめられまくりの吉川エスカルゴンでも「性的な意味では」、たぶん吉川デデデのものじゃなかろうが、本人達はそこを問題にしていないよな。

しかし、あんのうん脚本は「まだ」を前提にした、相手の全てをものにしたい、していたい、という欲深い愛が、相手に対する虐待につながっていく展開。
「ああ この快感 もう陛下は私のモノ! 今までの借り千倍にして返してやる!」(ハンマーで殴り倒す)第55話
「掃除なんてワドルディ達にやらせればいいでげしょうが」「わしはおまえにやってほしいぞい」(失敗したら、ハンマーで叩く)第78話
「(裸を)見せろ」「やだーっ」(すでにハンマーで叩いている)第88話

あんのうん脚本だとデデデは鬼。エスカルゴンは主に犠牲者で奉仕するお世話係だが、ややヒステリックできつい性格。デデデを長台詞で罵倒しまくるし、拒否もする。

あんのうん脚本の第55話「ある愛のデデデ」の回の冒頭の歌はこれ。
「いつでも トゲトゲイライラ鬼のデーデデ でも本当は辛いよ エースカルゴン 笑って失敗ごーまかし 責任おーしつけ ほんと 自分勝手 でも愛してるよ 陛下♪(チュッ)」
「悪魔! 鬼! 人でなし! デブ! サディスト!」という、エスカルゴンのデデデに対する罵倒もこの人の担当である第88話「はだかのエスカルゴン」の回。
「陛下なんぞ セコいただのお人好しなチンピラ 能天気なボウフラ アホ丸出しの風船オヤジで」の第95話「デビル・カービィ!」もあんのうん脚本回。
最初の方はひとりで愚痴っているだけだが、だんだんと面と向かっての言葉責めになっていくのは、吉川脚本と同じ流れだけど、こっちの方が長台詞だな。

デデデが鬼のせいか、あんのうん脚本のカービィはエスカルゴンに、天使のように優しい。おそらくあんのうんさんの脚本は「カービィ→エスカルゴン→デデデ」みたいな関係を想定している。カービィはエスカルゴンを心配し、エスカルゴンはデデデを心配し、デデデは自分の心配をしている。
さらに書き足すなら「フーム→カービィ→エスカルゴン→デデデ」かな。
「忘却のエスカルゴン」も「はだかのエスカルゴン」も、優しいカービィがかわいそうなエスカルゴンを助ける話だ。そうして助けてあげても、エスカルゴンは乱暴なデデデを選び続ける。
「発進! エスカルゴン・ロボ」には、デデデに「カービィを倒せ」と言われて、エスカルゴンが従う場面がある。デデデはカービィをいじめるだけが目的じゃなくて、エスカルゴンに自分の方を選ばせているのでは。それに従うエスカルゴンはデデデのために、デデデ以外の人物とのつながりを、自ら切っていっていることになるな。
「デビル・カービィ!」なんて「陛下を助けて」だから、カービィは最初からエスカルゴンに振られている。それでも助けてあげるし、許してあげるあんのうんカービィはヒーローだ。
普通は、ゲーム『毛糸のカービィ』のフラッフのように化け物から助けてあげたら、それで友情だか愛情が芽生えて味方になるんだが。

でも、エスカルゴンがデデデを捨ててカービィの味方になったところで、みんなに好かれているカービィにはお友達がたくさんいるので、カービィチーム内でのエスカルゴンの順位は十位以下じゃなかろうか。
だけど、みんなに嫌われているデデデと一緒にいれば、孤独なデデデの一番でいられる。孤独を恐れるなら、後者を選ぶよな。


憑依(解離性障害)

前述したように、あんのうん回には憑依回が多い。
そして、憑依(魔獣出現)と関連するのが、苦痛や恐怖をともなう、一方的な暴力。
簡単にいえば「ひどい目にあって、魔物化する話」が多い。
吉川監督の憑依回は、催眠や洗脳に近いので、「あやつろうとする側の意思」の問題が大きく、あやつられる側の心理的状態は関係ない。
吉川監督はそっちの方向には考えてなさそうだったので、アニメ『星のカービィ』のデデデのトラウマについての考察 (前編)の方では触れなかったが、憑依体質(解離性同一性障害)と聞いて、詳しい人がまず思うことは「誰かに性的な虐待をされたのか」だ。軍隊帰りや交通事故等、他の要因が明確な場合は別にして。
性別は関係ない。『24人のビリー・ミリガン〔新版〕上 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)』のビリーは男性だが、義父に性的虐待をされたと主張している。なお、義父は否定している。

55話ではエスカルゴンが「陛下はもう私のモノ!」と言って、ハンマーで殴りまくる。デデデの体から魔獣が出てきて暴れ回るのは、その直後。
88話の「はだかのエスカルゴン」では、デデデに殻を壊され、「見せろ」と執拗に追い回されたエスカルゴンが、魔獣化する。
これらが性的な意味合いのある攻撃だと思わない方は、どうぞ、そのままのあなたでいてください。
この二話に関しては「性的な侵害行為」と「憑依(解離)」が関連づけられている。
それは医学的にも物語的にも「常識」といえば、「常識」ではある。
ただ、バカもカゼをひく-『星のカービィ』63話を免疫学的に考察で書いたように、あんのうんさんには精神医学的常識はあまりなさそうなので、マンガやアニメによくある表現ということになるのだろうか。



主な担当回についてあれこれ

あんのうん脚本は作品によって、デデデとエスカルゴンの距離感がばらばら。この脚本家独自の物語をすすめているというより、他の脚本家の話を受けたような話が多い気がする。後から入った人でもあるし、アニメは集団作業だから、他の脚本家に合わせているのだろう。
ストーリーは典型に沿っていないものが多く、発想で勝負している。この人は「勧善懲悪」があまり好きでないのかもしれない。第39話「忘却のエスカルゴン」や第50話「貯めるぞい! のろいの貯金箱」第63話「師走のカゼはつらいぞい!」のような、この後どうなったみたいな終わり方もいくつかある。ホラーやギャグアニメなら、こういう投げっぱなしも普通ではあろう。


第33話 「え〜っ! 宇宙のゴミ捨て場」

あんのうんさんの最初の担当回、第33話 「え〜っ! 宇宙のゴミ捨て場」は国沢脚本の両者の関係の延長で、間抜けでわがままなお子様デデデと、がまんして面倒を見るエスカルゴン。ただし、ゴミの山から引きずり出す、という微妙な表現ながら「エスカルゴンがデデデを助ける(補佐という意味ではなく)」という描写は、この回が初かもしれない。
他には国沢脚本の12話で、怯えるデデデをエスカルゴンがゆすっている位で、これ、話のオチとしてはおどかしているのはエスカルゴン本人なんだよね。

逆に「デデデがエスカルゴンを助ける」は吉川脚本の1話からある。吉川脚本の第41話 メーベルの大予言! (前編) にも、一瞬だがデデデがエスカルゴンをかばっている仕草がある。
エスカルゴンがデデデを助ける、あるいはかばう、もそれらしきものがこの第33話以降の吉川回の第77話と第99話にあった。他の脚本家なら脚本段階にはない仕草が、完成した絵に入っていることもあるかもしれないが、監督回は別である。ボトムズでは吉川脚本回は、「悪役側の部下が上司を助けることの多い回」だった。
野添脚本のデデデに、エスカルゴンを助けるような仕草はない。エスカルゴン側も第65話の助け起こしぐらい。これをカウントするなら、吉川脚本の第41話の助け起こしもカウントしないといけない。
山口脚本の第56話だと仲むつまじく助け合っている。
国沢脚本だとエスカルゴンがデデデを助けようとしている場面があるが、逆はない。第76話のエスカルゴンを見捨てようとしていた国沢デデデは、割と本気だったのかも。
あんのうん脚本だと、「悪魔よ 去れ!」の第88話、「陛下を助けて」の第95話と、結局助けるのはカービィだとしても、お互い相手を失いたくはないんだよね。この回にその片鱗が見て取れる、のかもしれない。


第39話「忘却のエスカルゴン」

自分を殴る相手に居場所を求めてしがみつくという、吉川監督が定めた関係を突き詰めた話である。
「殴られても、一緒にいたい」「殴っているが、一緒にいろ」という両者の関係を単なる日常ではなく、エスカルゴン側の意志的な選択にした。
「喧嘩もするけど、一緒にいたい」という物語自体は、吉川監督が脚本の5話目の「一緒にいくぞい」「そうするでげす」ですでに存在する。

だが、この当時は国沢エスカルゴンが、とても反抗的な時期だった。
第32話 「歯なしにならないハナシ」(脚本 国沢真理子)のエスカルゴンはハンマーでデデデを追い回している。
この回の前の回である、第38話 「読むぞい! 驚異のミリオンセラー」(脚本 吉川惣司)でもエスカルゴンはデデデに意地悪である。
国沢脚本が12話や32話など「いつも一緒。でも恨んでる」という方向性だったので、視聴者から見て、あんのうん脚本は流れを変えているだろう。
国沢エスカルゴンがデデデに落ちるのは、第42話 「メーベルの大予言! (後編) 」で、シリーズ全体としてはこの回の流れを受ける形になっている。

記憶喪失が、漫画やアニメでよくあるパターンになる理由のひとつは、昨日までの両思いがいきなり片思いになるからだ。
エスカルゴンはデデデと知り合い全てに忘れられ、元の関係に戻るためならば、どんな苦痛にも耐えようと決意する。
そこまでして戻りたい関係が、「なぜ自分と一緒にいないで、他の連中と遊んでいるんだ」という理由で、殴られる関係なのだが。
エスカルゴンは、一緒にこい、とデデデに手首をつかまれて、引きずられながら「これでいいんでげすよ」とつぶやく。
苦痛をともなう愛でも、無視される孤独よりはいい、という選択がここにある。

記憶喪失もの自体は珍しい話ではない。自分が誰だったか忘れるという病気は実在しているからだ。病名は解離性健忘。
しかし、この話のように「自分以外記憶喪失」というのは珍しいだろう。
先行するひかわ博一先生のまんがに「デデデが記憶喪失のカービィに、おまえは自分の家来だと嘘を教える」という話があるので、同じ話は書けなかったのかもしれない。
つまり記憶喪失になったデデデにエスカルゴンが「陛下……わたしのことおもいだしてほしいでげす」と言ったり、「実はあなたはわたしの召使いだったんでげすよ」とだましたりする話を考えたが、かぶっていることに気がついて、強引に反転とか。

なお、カービィがみんなに無視されていると哀しむ「センチメンタルカービィ」も、デデデのたくらみで、周囲全てがカービィの敵にまわりかける第37話「お昼のデデデワイドをつぶせ! 」も、あんのうん脚本。


第55話「ある愛のデデデ」

シリーズ前半の国沢脚本にあった「いつも一緒。でも恨んでる」は、あんのうん脚本だと「ある愛のデデデ」の回だ。しかし、国沢脚本回だとエスカルゴンの復讐はそれなりに成立するのだが、この回では成立しない。シリーズ全体の流れではこの回が、おそらく最後のエスカルゴンがデデデに復讐を試みる回になる。第72話「ワドルディ売ります」のデデデを見捨てる野添エスカルゴンは、たぶん復讐じゃない。考えようによっては、殴るよりきついお仕置きだけど。
「ある愛のデデデ」の回のエスカルゴンは主従関係を逆転しようとするが、すぐに倍返しされる。千倍返し発言は「マゾヒストなんて本当はいない。サディストを演じるのが、自分か相手かの違いがあるだけだ」という、どこかで読んだ文章を思い出す。
デデデと一緒になって、楽しそうに悪事を働く普段のエスカルゴンは、一人では何もできないが、陛下となら何でもやっちゃう、臆病なサディストだ。

「陛下になぐられるのは 爽快でげす」発言については、二通りの解釈が可能。
「陛下が自分の好きな、いつもの陛下に戻って安心したでげす」と、苦痛になれて脳内麻薬が出るようになっている、の二通りだ。

さまざまなストレスにおいて脳内麻薬(エンドルフィンその他)が分泌されることがわかっている。van der Kolkらはまた,外傷性ストレス障害の患者が外傷的な状況に再び身をさらしたり自傷行為に及んだりするのは,内因性麻薬物質が関与していると推察している。
解離性障害 (新現代精神医学文庫) 

この引用文は、はっきり言えば「いつも殴っていれば、やがて相手は苦痛になれ、多少の快感を感じるようになる」という例のアレだ。しかしなんでこういうことが、医学の専門書に書いてあるかというと「夫に殴られて病院に入院した妻を、夫が連れ帰ってしまう」とか「殴られている妻が、幼い子どもを連れて夫の元に戻ってしまう」とか、しゃれにならない話と関わってくるからだ。
このアニメだと88話が前者で、78話が後者だな。
「はだかのエスカルゴン」は、デデデに殴られて病院に逃げ込んだエスカルゴンを、デデデが病院に押しかけてさらに殴るという話だ。その場で連れ帰るのには失敗しているが。

あんのうん脚本回のエスカルゴンの物語は、心配した周囲が助けても、本人が「でも、愛している」とかいって、別れずに殴られ続ける物語なのだ。その最初といえる第39話「忘却のエスカルゴン」から、最後の95話「デビル・カービィ!」まで。

吉川エスカルゴンもマゾヒストっぽい所はあるんだけど、あれは「強者に服従することで安心を得る」という古典的な路線だろう。



第78話「発進! エスカルゴン・ロボ 」

第39話や第55話までのあんのうん脚本では、どっちかというとエスカルゴンが、デデデに執着している。吉川脚本はそう規定している。
しかし第78話「発進! エスカルゴン・ロボ 」や第88話 「はだかのエスカルゴン」はデデデ側の執着が、エスカルゴンを壊す話だ。
あんのうんさん本人の脚本では、そのきっかけらしいものは見つからない。
単に前とは逆にしてみた、というのも脚本家としては普通の発想だろうから、きっかけが必要と強く主張するつもりはない。
しかしこれは、第42話 「メーベルの大予言! (後編)」(脚本 国沢真理子)や、第69話 「ウィスピーの森のエコツアー」(脚本 山口伸明)を、ふまえての路線変更ではなかろうか。
やはりデデデ自らの「逃がさんぞい」や「愛していたぞい」という台詞は、インパクトがある。
その第69話は、やはり第55話のあんのうん回のエスカルゴン側からの「愛しているよ、陛下♪」を受けているんだろうな。

エスカルゴンロボがいるから、本物のエスカルゴンは不要、という展開なら単なる第47話「帰れ、愛しのワドルディ」のキャスト替えだが、「エスカルゴンロボ」の回では、デデデは「エスカルゴンが二人になれば楽しいぞい」と笑っている。

この78話では、デデデが「大丈夫か」と聞いたので、自分を心配してくれたのかと喜んだエスカルゴンがハンマーで殴られる。
「カーペットが汚れたぞい」「陛下 愛しているのは私ではなく カーペットでげすか」。この場面は落語の厩火事あたりを念頭においていると思われるが、似たようなやりとりは吉川監督の第49話「アニメ新番組 星のデデデ」にもある(デデデ「大丈夫か」村長「私たちの体を心配してくれるのですか」デデデ「逆ぞい。寝たやつはこのハンマーでぶんなぐるぞい」みたいなやりとり)。

また、この第78話 「エスカルゴンロボ」の回は、先行する野添脚本の第47話 「帰れ、愛しのワドルディ 」や第72話 「ワドルディ売ります 」を意識して書かれているだろう。
ワドルディ達が城からいなくなったときに、エスカルゴンがデデデと城に残っていたらどうなるか、みたいな。
72話には、エスカルゴンがその後どんな風に城に戻り、デデデに迎えられたのかの描写がない。
思うにだいたいこの4パターンではなかろうか。

1.「おお、よく帰ってきたぞい。」と手を取って、素直に喜ばれた。
2.「なんぞい、おまえも帰ってきたのかぞい。早速お茶でも用意するぞい。」とテレビをみながら、さして関心もなさそうな態度で迎えられた。
3.「今までどこにいたぞい!」と殴られた。後はいつもどおり。
4.「なんでわしを見捨てたぞい! もう一度雇って欲しいのなら、これまでの三倍働くぞい!」と土下座したのを足蹴にされて、一層こきつかわれるようになった。

次の73話には吉川監督の回転寿司回で、いつもどおりの共犯関係だったから、2か3だろう。
でも、この4の説に近いのが、ロボ回なんじゃなかろうかと。
いきなりエスカルゴンが仕事を増やされたのは、逃げたからお仕置きされていたか、また逃げないか試されていたかではなかろうか。

デデデのエスカルゴンに対する扱いがひどいのは、否定しない。でも、流れとしては第69話で愛を告白し合ったすぐ後の72話で、エスカルゴンに逃げられたわけだ。物陰から心配そうに見ていたとはいえ、デデデにわかるわけがないし。デデデが「本当にわしを好きか?」と疑って試し行為に走るのは、デデデのような人格の人物としては当然かな。

「エスカルゴンロボ」の回は「暴君的な父親と虐待されている母親」の物語として読める。
虐待父(デデデ)、虐げられている母(エスカルゴン)、息子(ロボ)である。
日々が辛い母親は子供だけは虐待されたくないと思い、子供には父親に似ず、自分を含めた他人に優しい人間になって欲しいと望むが、結局子供は虐待され、暴力的な父親に似る。ありそうな話である。
母親役の性別が男性なので、この物語は二重になっている。
エスカルゴンロボの制作をフームが手伝っているのは、それによって「虐待父(エスカルゴン)」「子供を虐待からかばう母(フーム)」「虐待される子供(カービィ)」の物語が成立するからだ。

ちなみに国沢脚本の第25話「エスカルゴン、まぶたの母」は暴力的な父親と手厳しい母親の対立で、息子が父親を恐れず、母親の味方をするエディプスパターン。息子役の年齢の高さもあり、だいぶ違う印象。

「エスカルゴンロボ」の回とか、エスカルゴンを追い詰めたデデデが一発ぐらいなぐられてもいいような気がする。「忘却のエスカルゴン」でエスカルゴンが拷問されたのも、元はといえば魔獣を買ったデデデのせいだろう。だが、エスカルゴンが「陛下に殴られるのは 爽快でげす」とか言っちゃうマゾヒストだからか、特にデデデに対する罰や復讐はない。
逆に「ある愛のデデデ」の時は、フームが「このハンマーに聞いてみたら?」と、デデデをひどい目にあわせた罰をエスカルゴンに受けさせている。

「はだかのエスカルゴン」の回もデデデに対する罰はない。拒まれて終わることぐらいか。デデデはハンマーで追い回したことが、結果としてエスカルゴンの魔獣化を招いたことを少しは反省したのか、「二人で温泉に遊びに行くぞい」とソフト路線に変更しているし、この回の場合はそれでいいのかもしれない。

アニメ版『星のカービィ』の世界観では、デデデ大王が父親役として想定されているという前提で書くが、つまるところ、あんのうんさんは「父親を倒す」というエディプスシナリオが、苦手な人なんだろう。女性脚本家だと難しいかもしれない。
ユングは女性の場合は父親は敵ではなく、愛する相手だとしてエレクトラコンプレックスという言葉を作った。これは「悪の女王である母親を倒し、王である父親と愛し合う」というシナリオ。原作であるギリシア神話のエレクトラの物語に従うなら、「父の仇として、母を討つ」となるか。
ゲーム版「星のカービィ トリプルデラックス」で、セクトニアを倒して、デデデと協力し合う、タランザとカービィのシナリオがこれかもしれない。エレクトラのシナリオだとすると、トリデラのヒロインは、デデデではなく、カービィだな。

なお、この第78話の「軟体動物に骨はないぞい」という台詞は、「はだかのエスカルゴン」につながっている。カタツムリについて調べられたのだろうか。

エスカルゴンがデデデにカービィを倒せといわれていやがるこの78話と、デデデと一緒にうれしそうにカービィの頭の上に大岩を落とす79話 「ボンカースあらわる! 」は同じあんのうん脚本。読み切り形式のシリーズとはいえ、1話の間にずいぶん態度がかわったものだ。

あんのうん脚本は話主体で、キャラの言動はそれに従う印象があるが、まじめに受け取れば、ここでエスカルゴンはカービィを思い切っているのか。あるいはデデデと一緒なら残酷になれるという、主体性のない人物なのか。


第88話 「はだかのエスカルゴン」

まあ、思いついちゃったんだろうな。
しかし、なぜ思いついたのだろう。
カタツムリの本にはカタツムリの殻に穴をあけてみる実験が載っていたりするので、資料を集めているうちに思いついたか。
あるいはデデデがエスカルゴンに暴力をふるう場面を書いているうちに、殻をたたいたらどうなる? と思ったか。

この時期にこの話というのは、吉川エスカルゴンや国沢エスカルゴンが、すっかりデデデと馴れ合ってるので、あえてデデデを拒絶させてみたのだろうか。
ただ、あんのうんデデデがエスカルゴンに拒絶されるのは第63話「師走のカゼはつらいぞい! 」で、カゼで寝込んでいるエスカルゴンを頼って、ほっといてという態度に出られた時から考えると二回目。

この話は第76話 夢の恐竜天国! (後編) 脚本 国沢真理子 の
「永遠に離れないと誓った夜をお忘れでげすか」といったやりとりを意識して書かれているのではなかろうか。
上記の台詞を聞いて、多くの大人は何らかの既成事実があると想像する。
それを「裸すらみたことない」清い仲だと、主張するのがこの回である。
しかし、歯の生えたペンギン?と腕の生えたカタツムリの間の、既成事実って何だろう。
鳥と貝の間には異種どころか門の壁が、立ちはだかっているような気がするが。※門 (分類学)
まだ、フームとカインの方が、生物学的には背骨があるだけ近縁だ。ウィスピーウッズとラブリーなんて同じ被子植物だ。

また、現実のカタツムリの殻は脱げないので、カタツムリは殻を脱がずに交尾する。故に生殖孔は殻で隠れる場所にはない。ということで、カタツムリの殻を割るこの話は生体解剖の話で、性的な話じゃないですよっと。詳しくは アニメ『星のカービィ』を見て、カタツムリの解剖図を検索してみた で。

あえて古典と絡めた話をするならば、通常こういう話は「好色な主人が従者の婚約者や娘を狙う」というパターンになる。男の従者本人を狙わない。
従者の婚約者や娘が主人の手から逃れるならば、喜劇シナリオ。主人の手に落ちるなら悲劇シナリオ。
例えば、モーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」は、既婚者である伯爵が従者の婚約者を自分のものにしようとして、従者側が様々な策略で対抗する話。
ヴェルディのオペラ「リゴレット」は、公爵が道化の娘をだまして自分のものにする話。この話は従者の側が、それまで主人の女狩りを手伝っていたという関係でもある。

前者なら、エスカルゴンにかわいい彼女が出来て、それを知ったデデデが「おまえにはもったいないぞい。かわいこちゃん、次はわしとデートするぞい」と横からひっさらおうとするが、最終的には両者共に振られる話とか。
後者なら、実はエスカルゴンには母親に預けていた娘がいて、父親を訪ねてくる。それを知ったデデデが「おまえも父親と一緒に、わしの城で働くがよいぞい」と言い出して、娘の幸せを願うエスカルゴンに「私の娘を、死ぬほどこき使う気でげすか」と反対されるとか。芥川龍之介の「地獄変」のようにエスカルゴンの娘が、デデデの企みで魔獣にされかかるとか。エスカルゴンロボはややこれに近い。
常識的にはこういう「従者の女」シナリオだよな。だが、デデデとエスカルゴンの仲だと逆に違和感がある不思議。
ちなみに「フィガロの結婚」は「恋とはどんなものかしら」という曲が有名。話は知らないが、曲は聴いたことがあるって人も多いかも。

「去年の秋 一緒に露天風呂で背中と殻を流し合った仲ぞい。何を恥ずかしがることがあるぞい」というデデデの台詞について。
デデデの入浴シーンはいくつかある。
最初のは第6話 「見るぞい! チャンネルDDD」(脚本 吉川惣司)で、石けんのテレビCMとしての、入浴シーンである。
テレビ番組以外での最初は、あんのうん脚本の第33話 「え〜っ! 宇宙のゴミ捨て場」で、お風呂に入って、泡で遊んでいるデデデがエスカルゴンに「遊んでないで 洗ってるでげすか?」と言われて「のぞくな」と軽く怒る場面である。
微妙な距離感だな。
これを上書きするのが、第40話 「魔獣ハンター・ナックルジョー!」 脚本 野添梨麻の冒頭である。
朝のお風呂に入っているデデデの背中をエスカルゴンが、「リッチでげすなあ こりゃ」と泡のついたスポンジでこすっている。「あーははーん」と気持ちよさそうなデデデに、甘い声で「寝ちゃわないでよ」ともいう。
歴史に詳しい野添さんの、王様だったら、自分で体を洗わないだろう、という33話に対するツッコミにも思える。が、「忘却のエスカルゴン」を含む、数話の間に仲が深まったようにも見える。
去年の秋というのは、この後でさらに仲が深まったという設定なんだろう。

秋頃に放映された話の中から、あんのうん脚本回に限って、何かありそうな回を探すならこれらが候補だろうか。
第51話 センチメンタル・カービィ
第55話 ある愛のデデデ
第57話 パイを笑う者はパイに泣くぞい!
どの話の後も、ありそうではあるが、決定打はないな。
体が汚れる話といえば、57話だろうし、花火として打ち上げられる51話も身体的ダメージが大きそう。55話も互いに激しく殴り倒した後での、仲直りのためにあえて一緒に過ごしたりしてそう。まあ特定の話数を想定しているとは限らない。
他にデデデの入浴シーンとしては、あんのうん脚本回の第63話 「師走のカゼはつらいぞい! 」がある。エスカルゴンが風邪で寝ているためか、このとき手伝っているのはワドルディ。

去年の秋うんぬん言っているのは、第33話との関連で「以前、デデデもエスカルゴンに裸を見られて怒っていたじゃん」というようなツッコミがくるのを、あらかじめ阻止するためだろう。「わしの裸は見せたくないが、おまえのは見たいぞい」でもデデデらしいっちゃらしいんだろうけど、それだとさすがにデデデがひどすぎる。
だから「わしはエスカルゴンに裸を見せたのに、エスカルゴンの裸を見せてもらっていないぞい」という不公平を主張した方が、デデデが執拗にハンマーを振り回す動機が視聴者に納得いくだろうな。

なお、わたしは「中にいれるぞい 中々ぞい」という台詞を聞き流していた。ニコニコ大百科で迷台詞扱いされていて、ああと思ったけど。でもそれならサザエの殻を背負ったエスカルゴンの「実のところこりゃ中々具合がいいでげすー」という台詞もあやしいような。気のせいか。


第95話「デビル・カービィ!」

他のところで少し書いたので、ここでは短く。
操られるデデデの考察 ‐洗脳・解離・催眠・憑依

あんのうんさんは照れでもあるのか、印象を強烈にするためか、男同士の親密表現をバラや光がきらきらするギャグシーンに持っていこうとする。
第55話 「ある愛のデデデ」の冒頭の「愛してるよ 陛下♪ チュッ」とか。
第86話 「弟子対決! コックナゴヤ」の冒頭のカワサキとナゴヤの抱擁とか。
この第95話の終わりあたりの抱擁もそう。
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