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    デデデ大王の技と生き方

    デデデ大王は『星のカービィ 夢の泉の物語』で飛行と吸い込みというカービィの技を身につけて、再登場する。

    「デデデが飛べるのは苦しい修行の末、カービィの技を盗んだもの」『星のカービィ プププ大全』より


    やはりそれはデデデがカービィを認めているってことだろう。
    「あいつは嫌いだが、勝つためには仕方がない。あいつのまねをしよう」よりは、
    「あいつのようになりたい。よし、あいつのまねをしよう!」の方が自然だし、上達も早い。
    しかしカービィはデデデの先を行っていて、コピー能力を身につけていたのだった。
    夢の泉から今に至るまで、カービィは「きみの能力はぼくのもの。ぼくの能力はぼくのもの」というキャラクターである。きっと誰をも好きになれる博愛主義者。

    その後の『星のカービィ2』『星のカービィ3』『星のカービィ64』(下村ディレクターの作品)を見るに、カービィは自分の中の他者を支配できる(吸い込んだ相手の能力をコピーできる)が、デデデは自分の中の他者に支配される(入り込まれて操られる)という方向に明暗が分かれてしまっている。デデデはカービィのようにはなれなかった。
    またこれらの作品の仲間は、『星のカービィ スーパーデラックス』(桜井ディレクター)のヘルパーと違い、カービィに「食われた」という関係にあるわけではない。助けたら仲間というのは、相手の同意を重視した関わり方。

    熊崎ディレクターのニューデデデハンマーとかは、「カービィのやらないことをやる」方向性のもの。

    3人のディレクターの方向性の違いを、強引にひとつの物語にまとめるなら、こうなるかな。

    デデデはカービィの強さを認め、カービィのようになろうとし、実際ある程度まではカービィにならうことができた。
    しかし他者の力を自分のものにするコピー能力を会得することはできず、逆に他者のものにされてしまう。その頃カービィは他者を助けることで、仲間を増やしていた。そしてカービィはデデデも助けた。
    やがて、カービィは他者そのものを、自分の分身としてあやつるヘルパー能力をも手に入れる。
    しかし、デデデはなおも他者に体を奪われ、その他者の魔力が加算された状態でもカービィに勝てなかった。
    そしてデデデはカービィのまねではない自分自身の勝ち方、他者に頼らない自分の力を求めて、ニューデデデハンマーを開発し、カービィに挑むが敗れる。そして文字通りの自分の分身ならあやつっても、自分が逆に乗っ取られたりする問題はないかもと考えてチームDDDを結成する。

    これは結果として、向上心を持って他人のまねをしていた人物が、自分自身を見失って闇に落ち、試行錯誤して自分らしさを探す物語だ。
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    野添梨麻さん脚本回のデデデとエスカルゴンの関係の考察

    アニメ版『星のカービィ』で、野添梨麻さんが担当した回は以下の15話。

    第10話 ボルン署長をリニュアルせよ
    第15話 誕生? カービィのおとうと
    第19話 ナックルジョーがやって来た!
    第21話 王女ローナの休日
    第26話 忠誠! ソードとブレイド
    第34話 究極鉄人、コックオオサカ
    第40話 魔獣ハンターナックルジョー!
    第47話 帰れ、愛しのワドルディ
    第54話 やりすぎの騎士! キハーノ
    第59話 最強番組直撃! 晩ごはん
    第65話 逃げてきたナックルジョー
    第72話 ワドルディ売ります
    第82話 合体ロボリョウリガーZ!
    第90話 爆走! デデデス・レース (前編)
    第91話 爆走! デデデス・レース(後編)

    主にこのアニメシリーズの騎士道物語部分を担当している人。食べ物回も多い。


    野添エスカルゴンについて

    第10話の「だから 前がみえねーっていってんだよ この!」がエスカルゴンがデデデに乱暴な口をきいた最初。この時は「その口のきき方はなんぞい」ととがめられている。しかし国沢脚本の第12話「デデデ城のユーレイ」の「誰にもいわねぇから」以降は、デデデはエスカルゴンのタメ口を聞き流すようになる。


    野添エスカルゴンはかなり初期から、デデデを馬鹿にしている。特に容姿に関する罵倒が多い。
    「陛下を馬鹿にしているのは、プププランドの人民全員でげしょうが」(こぶしで殴られる)第10話
    「たとえ姿形は無様でも」(ハンマーで殴られる)第19話
    「だいたいその顔で結婚とか非常識」(こぶしでふっとばされる)第21話
    こういう発言をするエスカルゴンがデデデに殴られるのは、わかりやすい。
    エスカルゴンが、デデデに暴力をふるわれたから、おとなしく命令を聞く描写も多い。
    上記の10話の場面や、第59話のカップ麺の容器を口に突っ込まれた後とか。
    暴力による支配がストレートに成立している。

    吉川監督回の第13話には「美しいお祭り?」「あの顔からでる台詞かね」みたいな村人の台詞がある。デデデの容姿ネタ自体はこの回がたぶん初。他の脚本家にもエスカルゴンが容姿をけなす表現はあるが、おおむね後半のような。
    「陛下の醜さをそんなにはっきりいうのは 無礼でげしょうが」(国沢回)第42話
    「姿こそみっともなくあらせられるが」(山口回)第60話
    「鬼!悪魔!人でなし!デブ!サディスト!」(あんのうん回)第88話
    たぶん、第19話の「たとえ姿形は無様でも」の元は吉川脚本のこの部分。これは性格に関する解説でもあるな。
    「ひがみっぽい陛下を怒らすとこわいでげすよ」(殴られる)第4話

    でも「側近によるデデデの罵倒」についてはそもそもアニメよりも、ひかわ博一先生のマンガが先だ。

    星のカービィ デデデでプププなものがたり』の一巻(1995年)、一話には側近のポピーとデデデのこんな場面がある。

    ポピー「さすが大王さま、悪い人~!! こんな悪人見たことない! ずるくてひきょうで自分かって。まさに悪人のかがみ。」
    デデデ「やかましい!! そこまで言うな~っ」(こぶしでなぐる)



    これ以降も、エスカルゴンによる罵倒もかすむような、ポピーやカービィによるデデデの罵倒が時々出てくる。

    主人公が国王のギャグマンガである『パタリロ!』でも、こういうパターンでタマネギが罰せられていた。

    部下「アホでバカで より目で下ぶくれでも 殿下は殿下です! 無礼な態度は許しません!」
    国王「おのれが一番無礼じゃ!」(部下を火あぶりにする)


    パタリロ! 7巻』(1981年発行)より。少なくとも20数年以上前からあったパターンということになるな。


    野添脚本だと初回の10話からいきなりエスカルゴンに対する暴力がきつく、エスカルゴンが始終デデデを馬鹿にしている割に、親密表現はかなり遅れて出てくる。一瞬でほぼ見えない21話を除けば、第34話で抱き合って泣いている場面が最初になるだろう。これは喜びを共有している時の抱擁で、吉川監督始め、他の脚本家だと抱擁は怯えの表現のことが多い。
    第10話ではエスカルゴンが蜂に「今度は陛下を刺してください」と言ったりしていた。エスカルゴンが自分のために、デデデを犠牲にしたいと言うのは珍しい。たぶん、この場面だけ。強いてあげるなら第93話 「カービィ感謝の日! 」(脚本 友永コリエ)の「たたるなら陛下に」という意味の台詞かな。
    逆にデデデが自分の身を守るためにエスカルゴンを犠牲にしようとするのは、野添脚本の第34話 「究極鉄人、コックオオサカ」のデデデがナイフとフォークを持ったカービィに襲われそうになり、食べるならこいつがいいぞい、とエスカルゴンを抱きかかえて差し出す場面がたぶん最初。その後、他の脚本家の回にも似た場面が現れる。
    『ゲゲゲの鬼太郎』五期の第二話「ビビビ!! ねずみ男!」(脚本 三条陸)で、ねずみ男が妖怪に食われそうになり、「食うなら鬼太郎を食ってくれ」という意味の台詞を吐いているので、よくあるパターンではあろう。でもヒーローの鬼太郎は、そんなねずみ男を助けるのだった。

    第40話「魔獣ハンターナックルジョー!」の回ではお風呂に入っているデデデの背中を、ごく当然という表情でエスカルゴンが洗っている。この話あたりに、野添エスカルゴンの曲がり角があるだろう。

    テレビを見たりお菓子を食べたりフィギュア集めたり恐竜の絵本読んだりが趣味の国沢デデデと違い、野添デデデはドライブとかゴルフとか、大人の男らしい趣味の持ち主。設定としては、吉川脚本でそれらは成立してるのだが、野添脚本で活用されている。
    さらにいえば、アニメ版デデデの趣味がゴルフなのは、『カービィボウル』がカービィをボールとしてショットするゴルフゲームだからだろう。
    野添デデデは原型である吉川デデデと似て、暴力的だ。野添エスカルゴンは吉川エスカルゴンと同じく、デデデを殴ったりはしない。せいぜい料理に唐辛子を入れる程度。
    だが、野添エスカルゴンは「ワドルディ売ります」の回で「自分でやれば」という言葉を残して「(今、陛下に)見つかったら、どんなにこき使われると思うでげすか」と一度見捨てていた。
    国沢エスカルゴンやあんのうんエスカルゴンがデデデに捨てられたり、忘れられる側であることを考えると、見捨てる側に立ったのは野添エスカルゴンだけだろうな。

    野添回のデデデとエスカルゴンの関係

    野添脚本回のこの二人の関係は「都合が良いときは仲良くしているが、状況が悪くなるとお互いを見捨てる悪人同士の関係」だ。

    国沢脚本だとこのコンビは「どっちが家庭内で主導権を握るか」という権力闘争をしているが、野添脚本だとこのコンビはひたすら金のことで争っている。例えば、第47話 「帰れ、愛しのワドルディ」や第59話 「最強番組直撃! 晩ごはん」や第72話 「ワドルディ売ります」がそうだ。
    第40話 「魔獣ハンターナックルジョー!」 の「悪徳商法だったらどうするつもりでげすか」というエスカルゴンとデデデの会話もそう。
    65話の「逃げてきたナックルジョー」の回の、ベッドの下に宝石を隠すエスカルゴンとかもそうだろう。それを「わしからちょろまかした金で買った物ぞい」と笑って取り上げるデデデ。
    この強欲者同士の宝石争いは、吉川脚本回の第一話で宝石に見えるワープスターを、デデデとエスカルゴンが奪いあったのが最初。
    そこから発展した、エスカルゴンの宝石集めとちょろまかし設定は、それぞれ17話と42話の国沢脚本回からだけど、宝石の話は野添脚本に二回出てくる。

    そもそも、デデデが第一話でワープスターをいただこうとしたのは、「星のカービィ」一作目の「(デデデ大王が)秘宝きらきらぼしを盗んだ」や、「カービィボウル」の夜空の美しい星を独り占めや、「星のカービィ64」の拾ったクリスタルを持ってカービィにやらないぞーという意地悪をした場面からだろう。

    アニメ版では宝石集めは、どっちかというとエスカルゴンの趣味というイメージになった。
    なお、エスカルゴンの隠していた宝石は指輪のようだ。
    普段はブローチをつけられるような服を着ていないエスカルゴンなら、指輪が自然かもしれない。こっそり指にはめてみて、「きれいでげす~」とうっとりしているんだろうな。

    野添脚本ではデデデの立場が強く、エスカルゴンはそんなデデデの浪費癖をとがめる一方で、内緒で美しい宝石を買うという贅沢を楽しんでいる。
    「金持ちで傲慢な夫と、仕事面でも夫を支える金目当ての年下妻」みたいな感じかな。

    野添エスカルゴンが、主な脚本家のエスカルゴンの中で、一番デデデ本人に対する愛(依存)が薄そうな気がする。しかし見下しはあれど、憎しみや恨みも薄い。
    第65話で、実験台としてデデデに殴られたすぐ後で、ブンにボールをぶつけられたデデデを助け起こしているだけでも優しいとは思う。これは吉川監督の第41話に準拠する関係。

    野添脚本だと、吉川脚本や国沢脚本や山口脚本の「一人にしないでぇ」と怯えて相手にしがみつく臆病さが、デデデにもエスカルゴンにも乏しいからだろう。

    その代わりにワドルドゥ隊長と、ワドルディ達が陛下に忠誠を尽くしている。
    野添デデデの切実なる「一人にしないでぇ」は、第72話 「ワドルディ売ります」の誰もお世話をしてくれなくなった時の「ワドルディ愛していたぞーい」だろうな。
    デデデ大王と忠実なるワドルディは、その点では原作通りなので第72話は、ゲームソフト『星のカービィ20周年スペシャルコレクション』に収録されるという栄誉に浴した。

    それでは、第90話 爆走! デデデス・レース (前編) から野添脚本の二人の関係を象徴する台詞を紹介。

    「チンケだけど大王でげすぞ」
    「これは失礼 大王様でしたか」
    「そうぞい」
    「でも思考力0だから実権は この私にあるんでげす」


    これは奴隷の権力である。
    いい資料が手元になかったので、知恵袋から引用する。

    「ローマ法では奴隷は物扱いで権利能力がありませんでした」
    まあそうなのですが、正確とはいえません。
    奴隷は、主人の権利・義務を行使することができました。
    ですから、主人が、権力者であれば、主人の権利を行使する奴隷は、権力者でもありました。
    奴隷の執事に、自由民が従うなどは、当然起こり得た事態でした。


    http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1391221853

    権力者の奴隷は、主人のお気に入りである間は、主人の権力を自分のものとできる。だが、主人にひとたび嫌われれば、全てを失う。
    ある日、デデデ大王がエスカルゴンに飽きたら、エスカルゴンは城から追い出されるが、その逆はない。
    エスカルゴンは自慢のつもりだが、「陛下のお気に入りになるとお得でげすよ」という風に聞こえる。
    このやりとりの後で、暴走族達が「皆 陛下を敬っております」とデデデに取り入って、お気に入りになり、利益を得ているので彼らは即座にそれを理解したようだ。

    テレビのリモコンすら他人に操作させる主人に奴隷のように仕えることで、金と権力を手にして密かに楽しんでいるのが野添エスカルゴン。
    あんのうん脚本とは「主人と奴隷」の意味がたぶん違う。野添脚本のデデデとエスカルゴンのような「主人と奴隷」の方が歴史的には正しいだろう。野添梨麻さんに歴史に関する教養があるから、こういう描写なのだろう。

    野添脚本のデデデとエスカルゴンの関係は、まとめて見るとこんな流れ。

    侮蔑(第10話)→いつもの共犯関係(第15話等)→お世話係(第40話)→へそくり(第47話)→いつもの共犯関係(第54話)→家計争い(第59話)→二人で金儲けをもくろむ(第65話)→見捨てる(第72話)→相変わらずお金に困っている(第82話)→実権は私(第90話)

    浪費癖のある金持ち夫と贅沢好きな妻が、いつも買い物や家計のことで争い、二人で金儲けをもくろむが失敗し、借金のことで争ったあげくに妻は夫を一度捨て、なんとなく元鞘に収まり、妻は自分を支配する夫を逆に操ろうと画策する。そんな話かな。

    野添脚本の二人の関係は、もし90話のデデデがエスカルゴンを抱えて寝ている描写が脚本段階から存在するのなら、両者共に身勝手だけど、エスカルゴンはデデデのお気に入りの、自分の方が偉いと思っている猫ってことになるんだろうな。そんな二人に毛布をかけてあげる、忠実なワドルディ達の陛下に対する片思いがちょっぴり切ない。

    野添脚本には、ワドルディとワドルドゥ→デデデ→エスカルゴンの三角関係がある。だけど、ワドルディ対エスカルゴンでデデデを取り合う方向にはあまり発展しない。
    「第47話 帰れ、愛しのワドルディ」の回に典型的なように、
    「ワドルディとワドルドゥ→デデデ→エスカルゴン→お金」ってことだからだろう。

    どうやらこの脚本家独自の欲深い悪役の物語が、展開しているようだ。

    関連ファイル
    脚本家ごとのデデデ(短文版)
    『星のカービィ』の野添脚本回の過去作との照らし合わせ
    山口伸明さん脚本回のデデデとエスカルゴンの関係の考察

    『星のカービィ』のダークマターとデデデの関係考察

    ダークマター(剣士)の服の前の方の柄は、デデデ大王の腹巻きと同じ柄である。
    偶然とか、ポップスターではあの柄が伝統の文様とかそういうことではないだろう。
    おそらくダークマター(球形)の精神がデデデの精神と接触した結果、ダークマター(球形)の側から生まれたのがダークマター(剣士)なのだ。ダークマターにデデデ要素が入っている。
    逆にデデデの精神の側から生まれたのが、ブラックデデデ。デデデにダークマター一族の要素が入っている。
    ダークマター(球形)の状態だと思考や感情が、デデデとかけ離れているため、デデデの心身とコミュニケーションしやすくするため人の姿や言動をとったのだろう。
    単純化するなら、「普通の日本人にフランス語で脅したり命令しても、相手が命令を理解できないので、相手にあわせて片言の日本語で話してみた」みたいな。

    もちろんダークマターが最初に現れるときには、不気味な巨大な黒い物体として現れ、デデデを混乱と恐怖に陥れ、そのスキに乗っ取るというのも、ありだろう。

    またデデデの体を操るためには、ダークマター側だって「自分は2本の手があり、2本の足のある生き物」だと思わないといけない。

    神が人の姿で現れる現象に近い。
    ギリシア神話にこんな話がある。人間の女性であるセメレは、ゼウスの愛人だったが、あるとき「本来の姿をお見せください」と望んだ。ゼウスは断ったが、女性はなおも望んだ。そしてゼウスは雷神の正体で現れ、その熱によってセメレは焼殺されてしまった。

    また、『ソラリス』という映画にもなった有名なSF小説がある。
    巨大な不定形の海がひとつの生き物である星が見つかり、地球人が訪れる。その宇宙生命体が訪れた地球人の心理学者の記憶を元に、自殺した恋人にそっくりな何かを作り上げる。
    海としては地球人と何らかのコミュニケーションをとろうとしたのだろが、地球人にとっては「辛い過去を思い出させられる」以外の何物でもなかったという話だ。

    憑依の医学的病名である、解離性障害は若い女性に多いと言われていて、その原因は不明。
    乱暴にいうなら「霊感少女」は多くても「霊感少年」は少ないって話かな。
    男性の解離性障害は精神科ではなく、警察のお世話になっている説というのが有力視されている。
    霊感男性のアニメ版デデデも何かが憑いた結果、患者というよりは、犯罪者扱いされてしまう。現実は厳しいな。

    卑弥呼の昔から憑依現象は「男の霊が人間の女性にとりつき、人間の男性によってその霊の言葉が解釈される」のが典型的なパターンだ。
    日本神話の「神功皇后」の話は、巫女である王の妻が神にとりつかれ、その神が偽りの神でないかと疑った審神者である王が、神に殺されるという話だ。

    しかし、『星のカービィ2』の世界には女性らしい女性がいなかった。
    だから、『星のカービィ2』では神(ダークマター)と霊媒(デデデ)と審神者(カービィ)の三者がいて、審神者がこの霊媒についた神は邪神であるとみなし、お祓いをする展開に。
    霊媒が丸っこいペンギンだか、太った中年男とか斬新だな。いや、後者は宗教的指導者のカテゴリになら普通にいそう。「わしは神の声を聞いたぞい!」みたいな。
    アニメ版『星のカービィ』の第62話「たかが占いされど占い」は女性の霊媒を立てて、「神のお告げぞい」とデデデが審神者である王を演じる回。
    ちなみに現在の我が国は主神が天照大神という女神で、それに仕える宗教的指導者が男性という国だ。

    『星のカービィ64』では「リップルスターの女王様」がいた。女性の霊媒に男性と思われる憑神という点で、こちらの方が伝統的ではあるな。この作品におけるデデデの立場は「かつて邪霊に憑かれた経験を持ち、邪霊を祓う能力を身につけたお祓い師」なのだろうか。
    もっとも、ワドルディの憑依体験が、一番の謎かもしれない。ワドルディの年齢とか性別とかがそもそも謎だから。

    精神医学書に記された「憑依」で書いたように、

    「若い女性が悪人にさらわれた」→「貞操が危ない」
    「若い女性が悪霊に取り憑かれた」→「精神の貞操が危ない」

    なので、ダークマター一族にとりつかれた女性達があぶないな。カービィ達が間に合ったことを祈るよ。

    話をもどそう。


    デデデの暗黒面と融合したものとしての、ダークマターとは何か?

    1.抑圧された何か説
     「俺様は欲望のままに生きたい! でもそれはダメなんだろうな」
    善と悪とか、理性と欲望とか、意識と無意識とか、心と体とか、自我とリビドーとか、普段押さえつけられている何かが、あるきっかけであふれ出すとか、そういう古典的な世界。人間の精神に置き換えるなら、ダークマター(球形)が無意識で、デデデが自我の部分ということになるだろう。ダークマター(剣士)はあえていうなら、デデデの夢。
    フロイトの説。

    2.シャドウ説
     「俺様は自分が弱虫の負け犬だなんて認めない。俺様は強気で生きたい」
    こうあるべき自己像に入りきらない自分にとっての自分の欠点が、影として現れるという説。影が必ずしも「悪」とは限らない。本人がそういう自分の一面を「好きか嫌いか」「許すか許さないか」「偽物と思うか本物と思うか」の問題である。
    ユングの説。

    3.解離された何か説
     「殺されると思ったので、気がついたら相手をボコボコに」
    恐怖や不安などの人生の辛い側面から、闇の側の人格が生まれる。「平時は人が良い印象を受けるが、追い詰められると攻撃的な人格に豹変する」の極端な形。ダークマター(剣士)は「もうひとつの人格」ということになる。
    ジャネの説。

    アニメ版『星のカービィ』(2001年放映開始)のデデデには、「もうひとつの人格」と呼べるほどのものがないが、壊れる仕組みとして想定されているのはおそらく解離なんだろう。
    参照 アニメ『星のカービィ』のデデデのトラウマについての考察 (前編)

    ではゲーム版は?

    これは『星のカービィ2』の発売時期が1995年だということを、考えねばならない。
    世間的にはようやく「二重人格」が「多重人格」になったころだろう。
    『聖闘士星矢』(発表期間 1986年~1990年)のサガから、『幽☆遊☆白書』(発表期間 1990年~1994年 )の仙水になったころ、といえばわかる人もいるだろうか。
    サガは善と悪の二重人格という、古典的な存在である。

    自己と分離された者としての、影との戦いという物語としては『ゲド戦記 影との戦い』(原語版1968年、日本語版1976年)や『スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲』(1980年)が現代の古典だろう。
    ゲームで「分離された人格が自分を襲う」ものとしてのシャドウを扱ったもので古いのは、ディスクシステム「リンクの冒険」(1987年)のブラックリンク(ダークリンク)だろう。
    任天堂はブラックリンクが何者かは詳しく話していない。
    学説の寿命が、ゲームのタイトルの寿命より短い可能性もあるので、それでいいのかも。後に『女神異聞録ペルソナ』(1996年)が、シャドウとの戦いと和解を物語のメインにすえる。

    この時代はまだ「児童虐待」の再発見と、心的外傷と解離との関連の認識も一般的ではない。「凍りついた瞳(め)―子ども虐待ドキュメンタリー」(1994年連載開始)が単行本として刊行されるのは、1996年。
    1997年連載開始の『デビルマンレディー』には「義父に性的虐待されて悪魔憑き」という女性が登場するが、マンガでは新しかった。

    ゲームもマンガも時代の子だから、間接的にその時の精神医学の流行の影響を受ける。
    「最新学説」→「ノンフィクション」→「小説」→「映画」→「マンガ」→「ゲーム」みたいな流れと思われる。
    ゲームで元がユングの学説(河合隼雄)だと断定できるペルソナシリーズは、やはりレアだろう。

    ゲーム版デデデに取り憑かれていた時の記憶がないのなら、現象としては解離なんだろう。
    だが、ゲーム版も「もうひとつの人格」がどういう人格なのかはっきりしない。
    それに、何かデデデにとって辛い出来事があって、憑依現象が起きているわけじゃない。
    下村デデデは、腹に目や口が開く見た目からするに「恐怖や欲望という本能が理性を圧する」という状態で、古典的な「抑圧説」だろう。

    ブラックデデデについては、「シャドウ説」や「解離説」だろうが、ここでは詳しく突っ込まない。
    これまでのデデデの物語が全部つながっているとしたら、トリデラの時点でデデデは十分に「過酷な過去を持つ人物」だろう。たとえ最中は楽しかったり、仲間とのいい思い出であっても、戦いは強いストレスだ。負ければなおのこと。

    しかし憑依体質なのに、ほぼ物理攻撃しかかまさないデデデの主人格は「魔術的なもの」や「霊的なもの」と和解できない人格なんだろうか。カービィは、コピー能力やヘルパーを操る魔術師なのにね。

    精神医学書に記された「憑依」

    憑依という現象は精神医学と民俗学、人類学、宗教学などにまたがる複雑な問題である。

    何らかの霊に憑依されたと訴えるのは若い女性が多い。彼女らは、「心霊現象」として、お祓い師に任されるのが伝統だった。
    悪霊が祓われた後は、彼女ら自身が新たなお祓い師になることも多かった。
    精神科医といういわば新参の存在が、それらの治療に乗りだして、「憑依(解離)」に関して科学的な研究を世界的に進めている。
    まあ今時の普通の人には「祈祷師」のつてなどないだろう。精神科医は簡単に探せるが。
    水木しげるの『のんのんばあとオレ』は拝み屋の妻と少年の交流を描いた作品だ。この作品に描かれた時代は昭和初期だ。現代では田舎ですら難しい話だろう。
    日本における憑依の歴史については、『日本の憑きもの』や『神子と修験の宗教民族学的研究』という本を参考にどうぞ。

    米国精神医学会がまとめた『DSM‐IV‐TRケースブック』という本がある。
    この中に「憑依体験」の例がいくつかおさめられている。憑依は精神医学の世界では多くの場合「解離」という言葉を使って語られる。

    憑依に関する資料としては、旧版である『DSM‐IV‐TRケースブック』の方がおすすめ。
    数例しか載っていないが、最新版の『DSM-5 ケースファイル』では解離の症例はあれど、「憑依体験」はひとつもないからだ。

    DSM‐IV‐TRケースブック』には「世界各国からの症例」という章があって、アフリカの「心霊憑依運動」や中南米の「幽霊」に取り憑かれた女性の話などが載っている。

    アフリカではまだ「霊がついた女性」が「魔術師になった存在」として好意的に受け止められる余地があるようだ。
    中南米の症例でも「霊がついた女性」が「魔術師になった存在」として祈祷師のコミュニティに所属し、やがてトランス能力が衰えて普通の女性になる話がある。
    しかし「霊がついた女性」は「悪霊に苦しめられる存在」でもある。キリスト教化された世界からだろうか。

    「憑依」や「悪魔憑き」というのは、フィクションではよく目にする現象ではあるが、専門書で読んだことのある人はそれほど多くないだろう。
    ということで、コロンビアの「幽霊」という14歳の少女の症例から引用する。病名は「特定不能の精神病性障害(暫定診断)」。

    あるとき、朝食の際にウルスリナは誰かが滑らかで氷のように冷たい手で彼女を抱き、自分の目が塞がれるのを感じた。

    彼女がお祈りを捧げると彼はからかった。彼女の手から十字架を叩き落とし、「おまえや皆がどれだけ祈っても、私は決しておまえを離さない。おまえは永久に私のものだ、さあ来い、行こう」と彼女に言った。

    彼女がシャワーを浴びているとニヤッと笑って「さすってほしいかい」と聞いた。ある日、彼女の左胸を強くにぎったので彼女は痛みで気を失ってしまった。


    悪霊にとりつかれて、体をさらわれたり、裸を見られたり、俺のモノ宣言をされるのは、どっかの二次創作でもありそうだが、こういう学術的な本にもそういう記述はある。

    他の「悪霊と霊柩車」という症例(病名は、「解離性トランス障害を伴う、大うつ病性障害」)にも、寝ている自分の上に乗った霊に性交を迫られるという記述があった。
    どうみてもインキュバスです。

    「若い女性が悪霊に取り憑かれた」と聞いて、
    「その霊は性的な悪戯をしかけてくるんだろうか」と考えても「だいたいあってる」のだ。
    つのだじろうのまんがにもこういうのがあったような。
    ただ上記の症例は全文読むと、『エクソシスト』的な怪奇現象だ。「霊が実在する」とされる文化では、個人の空想であるはずのものが、家族や周囲も巻き込む。

    現代では解離性障害と診断される女性のどれだけが「悪魔と交わった魔女」として、中世のヨーロッパで処刑されたのだろう。

    手持ちの本の症例に「男性が女性の悪霊に誘惑される」というのはなかった。
    西洋の伝承ではサキュバスのことになるだろうか。
    アレイスター・クロウリーの小説にはそういう話もあった。

    男性が男性に取り憑く。
    一神教の神は基本的にこれ。男性である神の声を聞いた男性が教祖になるのは、現代でもよくある光景だ。
    だが、「憑依」の症例として、男性に男性が憑くのは手持ちの資料になかった。
    多重人格者の症例としては、男性の中に男性の人格があるのはよくあることのはずなんだが、男性はそれを「憑依」ととらえないのだろうか。
    有名なビリー・ミリガンは男女混合チーム。

    女性が女性に取り憑く。
    女性の中に女性がいる、多重人格の症例としては映画版『イブの三つの顔』原作『私という他人―多重人格の精神病理』が有名だが、「憑依」としてはあまり聞かないような。


    関連記事  『星のカービィ』のダークマターとデデデの関係考察

    なぜ、エスカルゴンは、デデデに殴られても耐えているのか

     
    アニカビ考察。あえて短く。
    「なぜ、エスカルゴンは、デデデに殴られても耐えているのか?」
    全100話の中で、理由はいくつか示されている。というか、視聴者のこの疑問にお答えするのが目的としか思えない回もあったよな。
    1「金のため」
    悪役らしくて良い理由だ。
    2「権力と社会的地位のため」
    1と似たような理由だが、こちらの方がプライドや権威主義を感じる。
    3「デデデのことが好きだから」
    忠誠心か愛なのかは置いておいて、健気でわかりやすい。
    なんで好きなのかという疑問はわくが。
    4「デデデに好かれていると思っているから」
    エスカルゴンの気のせいじゃないところが、ある意味やっかい。
    私を好きなあなたが好きというのは、自然な感情。
    当然だが、自分を好きでいてくれる人と別れるのは、自分を嫌いな人と別れるより辛い。
    5「デデデが時々優しいから」
    4と重なる理由。
    優しいか? という疑問はあるだろう。
    でも怯えて抱きついてくるのを振り払わないだけでも、安心させてあげていることになる。
    たまーにかばってるし。
    6「マゾだから」
    気絶する程殴られても、逃げない理由がこれなら、確かに納得できるが……。
    一応、第14話までの初期の吉川惣司監督の脚本でも、6以外は感じ取ることができる。
    「仕事」というより「保護者」を失うのが怖いのだろう。
    6は、「おまえもよくわしのおしおきを喜んでくれたぞい」(第42話 メーベルの大予言 後編 脚本 国沢真理子)や「陛下に殴られるのは、爽快でげす」(第55話 ある愛のデデデ 脚本 あんのうん)あたりだろうな。

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    テーマ : 懐かしいアニメ作品 - ジャンル : アニメ・コミック

    『ゲゲゲの鬼太郎』のバックベアードの正体は閃輝暗点

    バックベアードという妖怪は、水木しげる先生のオリジナル妖怪だという。
    おそらく水木しげる先生は、バックベアードを実際に見たのだ。

    片頭痛の直前に見える幻視を、閃輝暗点という。
    閃輝暗点で検索すると、バックベアードに似た画像がいくつか見つかる。
    実際に見た人の話はこうだ。

    17歳の娘のことなのですが、時々、ぴかぴかした光が見えてギザギザのようにだんだん広がって見えるといいます。視界が暗くなって見えにくくなるようなのですが、中に人の顔のようなものが見えることがあるそうです。


    閃輝(性)暗点 とつか眼科
    中心が暗くて人の顔のようなものが見え、ふちが稲妻のようにギザギザして、歯車のように回転しながら視界をふさぐ、閃輝暗点はバックベアードそのものではないだろうか。ちなみに、アニメ五期のバックベアードは紫電と空間の歪みをともなって現れる。

    参考 突然、視野が欠けギラギラ光るものが見えた

    それでは水木しげる先生自身のバックベアードに、関する文章を引用しよう。

    この目でにらまれると、にらまれたものはとたんにめまいを感じ、ビルなどにいればたちまち落ちてしまうという。


    妖怪世界編入門 1978年 水木しげる

    この水木しげる先生の文章は「閃輝暗点を伴うめまい」という、病院ではよく聞く訴えではなかろうか。
    「めまい」は片頭痛と関連性が高い。

    めまい患者さんの約40%に片頭痛があるとされています。逆に片頭痛を有する人の約20%にめまいがあるとも言われています。

    めまいと頭痛|医療法人 入野医院

    芥川龍之介の『歯車』での、閃輝暗点とされる描写はこうだ。

    僕の視野のうちに妙なものを見つけ出した。妙なものを?――と云うのは絶えずまわっている半透明の歯車だった。僕はこう云う経験を前にも何度か持ち合せていた。歯車は次第に数を殖やし、半ば僕の視野を塞ふさいでしまう、が、それも長いことではない、暫らくの後には消え失せる代りに今度は頭痛を感じはじめる、――それはいつも同じことだった。


    歯車 青空文庫

    水木しげる先生は読書家だったので、本人が頭痛の時に閃輝暗点を見たのではなく、本や他人の体験談から着想した可能性もある。
    絵においては、内藤正敏氏の写真や、ルドンの絵画の影響であるとする説がある。
    鬼太郎最強のライバル「バックベアード」の由来と成立を考える
    たしかにこれらと似ている。
    しかし、内藤正敏氏の写真には「めまい」に関する文章は、ついていたのだろうか?
    元とされる「少年ブック 昭和40年8月号」や「少年ブック1967年8月号付録」の文章にも、「めまい」の文字はない。前者に「しらずにガケからおちたり、めくらになる」という文章はある。だが、ガケから落ちる理由は定かではない。目が見えなくなることと関連して、「目の前が暗くなったから」かもしれないし、逆に「まぶしく感じた」からかもしれない。憑依体験かもしれない。
    また、にらまれた者を死に至らしめる、邪視という概念自体は古くからある。

    水木しげる先生の「妖怪大戦争」(1966年5月)でも、めまいの描写はある。
    バックベアードの目を見た鬼太郎は「くらくらくらくら」という擬音とともに倒れ、夢遊状態でバックベアードに操られ、そのバックベアードの死とともに正常な状態に戻る。

    これは神経調節性失神(脳貧血)といわれる、めまいがした後での気絶らしくもある。だがその後夢遊病(睡眠時遊行症)に移行しているので、心因性の失神から催眠により解離したのだろう。古い言葉ではヒステリーとなるか。

    「妖怪ラリー」(1968年9月)でも、バックベアードは魔女や鬼太郎をにらみつけて、めまいをおこさせている。この時は気絶も夢遊病も伴わない。

    かように水木しげる先生は、バックベアードと「めまい」を結びつけている。
    だから、私は「バックベアードは、ある程度水木しげる先生の実体験に基づく」と考える。
    片頭痛の原因ははっきりしないそうなので、人がなぜ閃輝暗点を幻視するのかはわからない。
    バックベアードが有名な妖怪になった理由のひとつには、似たようなものを見たことがある人が少なくないということがあるんじゃなかろうか。それこそルドンも見たのかもしれない。

    閃輝暗点は古くから人々の目の前に現れていた。
    現代になってそれは、都会に立ち並ぶビルの上に現れるようになったのだ。

    解離体験尺度

    引用しようと思って、久しぶりに解離体験尺度(解離体験スケール)を検索したら、以前あった数値を自動で計算してくれるタイプのページはなくなっていました。
    どうしようかと考えましたが、「紙と鉛筆をご用意ください」というより、「大雑把ですが、自動で計算します」という方が需要あるよね、と思って作成しました。
    Javaスクリプトで動きます。自分の解離体験が、どの程度のものか知りたい方はどうぞ。
    解離体験尺度

    以下、『星のカービィ』系統の読者様用解説

    これは、簡単にいうと憑依体験の有無をチェックするためのテストです。
    以前書いたように、精神医学の世界では「憑依」は「解離」という用語で語られます。
    多重人格者は「しばしば誰かにとりつかれる人」「よく誰かに体を乗っ取られている人」なのです。

    ある多重人格者は、多重人格者になった時の体験をこう述べています。

    あたかも体の後ろから誰かに侵入された、と感じた
    DSM-5における解離性障害 改訂版 (5) より



    病的な憑依と、儀式や演技の延長としての憑依をわけるものは、「憑依されていた時の記憶があるかどうか」です。

    「人格が交代していた時の記憶がない(誰かに体を乗っ取られていた時の記憶がない)」
    これが日常的にあるかどうかを文章で質問すると、こうなります。

    質問3 どのようにしてたどり着いたか全くわからないのに,ある場所にいることに気づく人がいます.どの位の割合でそのような経験がありますか.

    質問25 したことを覚えていないのに,実際はある事をしていた証拠に気づく人がいます.どの位の割合でそのような経験がありますか.



    「はっ! ここはどこぞい! わしは何をしていたぞい!?」
    みたいな、アニメやゲームやマンガによくある経験があるかどうかを、この解離体験尺度は大まじめに聞いているのです。
    なぜならそういう人が、ある程度の数実在するからです。このテストはそういう人達を見わけ、適切に治療するためにつくられました。

    アニメ版星のカービィでは吉川監督回の操られデデデその他と、あんのうん脚本回の憑依されるデデデとエスカルゴンが病的であるといえましょう。
    ゲーム版ではトリデラや毛糸の操られデデデも、記憶がなさそうではあります。
    ダークマター一族にとりつかれていた時も、記憶がなさそうです。

    それでは最も「憑依」を体現するデデデは、どのデデデか……。
    下村さんの担当した2と3のデデデです。
    「元の人格に憑依されていた時の記憶がなさそう」
    「しかし憑依していた側の人格と記憶が別個に存在する」
    この二点から多重人格的な「憑依」であると考えました。
    たとえば、アニメ版の「ある愛のデデデ」の回でデデデがとりつかれたトゲイラは、別個の人格といえるほどのものがあるわけではありません。

    関連ファイル
    操られるデデデの考察 ‐洗脳・解離・催眠・憑依