『ONE PIECE』の百計のクロのメモ

    昔、『ONE PIECE』を読んだ黒沢かじか氏(職業絵描き)が、「百計のクロの容姿のモデルは小林よしのりだ」と言った。
    その時は「ああ、似ているな」で、流した。

    最近、ふと気が付いて黒沢氏に問うた。
    「ワンピースに出てくるキャラで、小林よしのりに似てると君が言ったキャラがいなかったっけ?」
    「そうだよ。百計のクロ。」
    「その必殺技って、敵味方の見境なく盲目的に全てを切り裂く、じゃなかったっけ?」
    「ああ、それって小林よしのりそのものじゃん」
    尾田栄一郎先生は、小林よしのりという評論家をそういうものとして、とらえたのだな。
    「きっとよしりんに憧れていた時期があるんだよ」と、黒沢氏は言った。
    昔、小林よしのりもジャンプまんが家だった。
    ルフィの「お前みたいなおとこには、絶対にオレはならねェ。」というのは、おそらく作者の心の中のよしりんの思い出との決別宣言なのだ。

    全てを切り裂けと言葉は言う、全てを切り捨てろと理論は言う、それは本質的な要請なのだ。

    批評に囚われるのは、だから危ういのだけれど、こういうちょっとした謎解きもできるのが、批評の楽しみだとは思う。
    でもまんが家が、せっかく遠回しかつ直接的に皮肉っているのだから、本当かもしれないことは言わぬが花だったかも、と思う。しかし、その後悔にもすでに慣れた。
    ここ、切り開いてよかったのかしら? という問は常につきまとう。

    盲目の切り裂き魔と、論に囚われたある人のことをある人が言っていた、今日はそうつぶやいて、言葉の魔物を少しだけ実感したい。
    自分の言葉がもっと切れ味鋭ければよいと、望む者として。
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    闘将!! 拉麺男(たたかえ!! ラーメンマン)2 JCS(1)

    将棋七鬼衆を倒せ! の巻

    [あらすじ]

    この回はラーメンマンのこれまでを、イメージ的に描くところから始まる。
    父を殺される場面、師に出会い、修行する場面、弟子を連れるようになる場面など……。
    そしてタイトルの後での場面は、陳老師の道場で、ラーメンマンがたくさんの弟子達を指導しているところである。
    それを見て、陳老師は、ラーメンマンの指導力に満足する。
    だが、冷麺(リャンメン)に指揮をまかせ、外に出たラーメンマンは何事かを、考え込んでいる様子だった。
    声をかけたシューマイにラーメンマンは旅がなつかしくならないか、という。
    けれど、シューマイは野宿したり、ヘビにかまれたりと、大変なことも多かったから、旅には出たくないという。
    わたしたちの助けを必要とする人がいるのではないかとのラーメンマンの言葉を聞いて、老師が、一人の男をともなって現れる。
    男の名は麻婆(マーボー)といい、彼の村である鬼首村(おにこべむら)は、生きた人間が石になってしまう病気が流行っていた。
    その特効薬とされる赤子茸を、残虐なふるまいのために少林寺に破門された大林寺の、歩鬼、香鬼、桂鬼、金鬼、角栄、飛龍、破壊鬼玉王の将棋七鬼衆が独占しているので、困っているのだという。
    ところが、鬼首村は実はラーメンマンの故郷で、幼い妹と生き別れた場所だった。
    つらい思い出のある場所だったが、意を決してラーメンマンは鬼首村へ向かう。
    そこでは村人達が石になっていた。そして村人の一人であるチャーハンが、喉のかわきにたえかねて水を飲み、ラーメンマンたちの目の前で石化する。
    そこへ一人の男が現れる。彼は娘が片手の不自由になった自分のために危険を承知で、赤子茸をとりにいったのだと泣く。
    彼が拾って育てたその娘の名は拉娘(ラーニャ)。妹だと確信したラーメンマンは冷静さを失って闘い、破壊鬼玉王怒狼封(はかいきぎょくおうドロップ)を受けて彼は敗北し、共に闘った村人たちも全員命を落とす。
    村人たちが殺されるのを見た拉娘は、わたしは人質として死ぬ覚悟が出来ていたのに、あなたの邪魔のために、みんなが犠牲になったとラーメンマンを泣きながら責める。
    村に残っていた村人達も、彼の敗北を責める。
    しかし拉娘を育てたじいさんだけは、ラーメンマンを慰め、村人達の棺桶をつくろうという。
    手伝っていたシューマイは、釘が上手く打てないと言う。大工の彼は、そういう時は木の目に合わせて、まっすぐではなく、斜めに打てという。
    それをヒントに再び玉王と対決したラーメンマンは、玉王の鎖カタビラを、心突釘裂脚で斜めに打ち抜き、勝利する。
    返り血を浴びたラーメンマンを見た拉娘は、悲鳴をあげて育ての親に抱きつく。
    それを見て、ラーメンマンはこれでいいんだ、と妹に背を向ける。
    ふと気付いて拉娘はつぶやく。
    「あ…あなた、も…もしかして、に…兄…」
    「拉娘さんがなにかいってるよ」
    「きっとさよならだろ」

                             [あらすじ終わり]

    [解説]

    このまんがが、TVドラマの水戸黄門のように、英雄が弱き民衆を助ける話であることが強調される回である。水戸黄門のような話が1960年代にテレビに登場した背景には、「世の中が安定した」というのがあるんだろう。

    女の男に対する涙の叱責は、この回でもあったのだなと、思う。世間の仕打ちはいつも冷たいが、この回に関しては納得がいく。

    山が鬼の面で近くの村が鬼の首、面白い命名である。この村が鬼によって支配されていることがよくわかる。

    赤子茸は根本に小さな赤ん坊のようなこぶができている茸である。絵的には中国で漢方薬として珍重された「冬虫夏草」という茸に似ている。ちなみにベニテングダケにも似ている。
    赤子は生命力の象徴なので、人を石化から蘇らせる薬にふさわしいのだろう。
    死でなく石化なのは、復活のための用意であるが、凍結された時間というものの象徴なのかもしれない。
    前にも石と化した人の話は出てきて、それは兄弟子のチャーシューメンの話だった。これもラーメンマンの過去に絡む話だった。忘れられた過去は、現在をそのように呪うものかもしれない。

    ラーメンマンが故郷を失い、孤独な武芸者としての旅立ちを新たにする話だ。
    男として使命を果たす辛さと切なさが、胸に染み込む回。



    少し、間が開きましたね。まあ、地道にいきます。
    しかし、ラーメンマンを読んだ後にキン肉マンII世とか読むと「昔はまともなまんがを描いていたのに」とか、ありきたりな台詞を吐きたくなりますね。
    ちっともまともじゃないって?
    わたしはゆで先生のファンになって、
    「タイヤキが泳げるか!」とか「人間が水仙になるか!」とか「お菓子で家が建てられるか!」とか「海に人魚なんているもんか!」とかいう「ツッコミのココロ」のスイッチを必要な時に切る癖がつきました。
    入れると「人が石になったまま、息をして生きていたりしないだろう」とかツッコミたくなります。
    一応これは「呪い」ではなく「毒」による「病」という設定なので、全身が石のように固くなった時点で、それは肺も固くなると言うことなので、そりゃ死ぬだろうと。
    医師であった手塚先生がこういう病の話を描いていたので、きっとそれがヒントなんでしょうね。
    たぶん、こういう話にしたのは「石になっていく者と石になった者の絶望」というものに、ゆで先生が「悲惨」を感じたからなんだろうなと。

    まあ、おとぎ話には、速度が必要だと思います。
    イメージとか、たとえ話は一瞬で人を納得させる力を持ちます。ですから、短くまとまっていれば、思考が疑問を持つのは、感情が納得してからです。
    この時期のゆで先生にはその速度があるので、いいな、と。


    『闘将!!拉麺男』の羽薔薇と金剛の話の解説

    気になったので、これを先に取り上げておこうかと思いました。

    ゆでたまご先生の送る渾身のラブストーリー、それが『闘将!!拉麺男』の羽薔薇と金剛の話です。っていうか、JC版では12巻もある『闘将!!拉麺男』中にラブストーリーらしい話はこれしかないのですが。


    [羽薔薇と金剛の物語のあらすじ]

    ラーメンマンに敵対する悪人玉王は、かつて悪行の限りをつくし、罪人として処刑された名拳士たちを術で蘇らせる。その一人金剛は生前は水もしたたる美形であったが、斬首刑にあった後に道ばたに首をさらされ、彼に肉親や恋人を殺された人たちに石を投げられたあげく、油をかけられて火を付けられ、その首は焼けただれてしまう。そして醜い顔のまま死者として蘇った彼はそれを隠すために仮面をかぶっている。

    金剛には羽薔薇(バーバラ)という恋人がいた。彼女は金剛がさらし首になると決まったとき、金剛が死んでも一生結婚しない、さらされた金剛の首を持ち帰ってそれと一緒に暮らすとまで金剛に言った。しかし、焼け爛れた金剛の首を見ると悲鳴をあげて逃げていってしまった。ふとしたきっかけで闘いの最中に恋人を思い出す金剛。

    金剛の様子がおかしいことに気付くラーメンマン。仲間の蛾蛇虫はラーメンマンに「ただひとついえることは、どんなにあらゆる感情を捨て去りスキのない者でも、人間である以上はなにかひとつ、自分の身も心もすべて捧げてしまいたいくらい、強い感情の現れるものがあるはずだ」と言う。

    羽薔薇との幸せな時間を思い出した金剛の顔は元の天使のような美しい顔に戻り、霊となった羽薔薇がその金剛を迎えに来る。しかし、試合の際中に金剛が天に昇ってしまえば、その闘いはラーメンマンの勝ち。それを嫌った玉王の企みにより、金剛の顔は再び焼かれ、恋人の霊は驚いて去る。それで、対戦相手のラーメンマンに対する恨みを更に深めた金剛は、ラーメンマンにおそいかかる。そこに再び羽薔薇の霊が現れ、顔が焼けた位で逃げた私が間違っていた、本当は優しいあなたの心が好きというが、今さら遅いと金剛はラーメンマンにトドメを刺そうとする。だが、逆にそんな金剛に怒ったラーメンマンに金剛は殺され、龍神の慈悲で再び美しい顔となった金剛の霊は、羽薔薇の霊と共に薔薇の花に囲まれて空の高みへと昇っていく。
       
                  [あらすじ終わり]


    あなただけは特別で一生離れない、あなたが死んだら首だけでも一緒にいたい、わたしが死んだら霊となって迎えにいくわ、そして二人は天国で永遠に結ばれるの……って、いつの少女まんがですか、これは。
    ああ、画面にバラが乱れ飛ぶ、1980年代の少年まんがでしたね。

    ……こんな話を描く人は、たとえ描写が血まみれだろうが、汗くさかろうが、ゆでたまご先生であろうが、ロマンチストです。
    『闘将!!拉麺男』連載時のゆで先生は、おそらく素で話がこの当時ですら古い少女まんがなのでしょう。
    でも、それは自分には似合わないと思っているから、ラブストーリーはこれ一話なんでしょう。
    金剛ののめり込みっぷりに、正直、感動しましたけれど。

    少女まんがの祖は手塚治虫の「リボンの騎士」で、西洋風おとぎ話は少女まんがの典型でした。
    でも1980年代当時はすでに「24年組」が活躍していて、少女まんがは少女の繊細な内面を描く文学と化していたりして、「恋愛をめぐるおとぎ話」の色を薄くしていました。
    「少女まんがならファンタジーを描いてもいい」という理由で、少女まんがを目指す男性もいたそうです。
    ですが、初期を除いてそういう成功例ってあまり聞かないような気がします。
    女の子の中の男らしさを描いた「和田慎二」や「柴田昌弘」と男でありながら、倒錯的な道を選んだ「魔夜峰夫」が、男で成功した少女まんが家の筆頭でしょうね。
    他に男性作家が活躍できる少女まんがのジャンルは、ホラーですね。伊藤潤二とか。男が残虐表現をして、女の子が恐がりつつ読む、といった感じでしょうか。


    容姿にこだわらない愛が真の愛であるという物語は、羽薔薇の話と王位編のビビンバの話に共通する特徴かもしれません。
    ゆでたまご先生って自分が美形だったら、女の子にモテたのにって、考えすぎているような気がします。
    もしゆで先生がモテなかったのなら、顔よりも女性観や恋愛観の歪みの方が大きな問題だと思いますが。


    恋人を「金剛さま」とか「金剛さん」と呼ぶ、羽薔薇の丁寧な言葉遣いからもわかるように、品良く健気で従順な女の子が好きなのでしょう。でもそういう女の子に、男を拒絶する残酷さを感じてしまったりもするのですね。好きな相手は手の届かない存在だという物語に涙する人なのでしょう。

    こういう甘く切なく残酷な所もあるけれど、一途で幸せな話を真剣に描く人というのは「現実に傷つけられたことがある極端に夢見がちな」人、「何か手の届かないものに強く憧れてしまう」人なのだと思います。

    『ハウルの動く城』に関するメモ

    西洋の『シンデレラ』や『白雪姫』だけでなく、日本の昔話や王朝文学にも、『落窪物語』や『鉢かづき』や『姥皮』などの継子いじめ譚がいろいろとあります。
    そのパターンは「継母をもち生母を慕う美しい姫が、一旦いやしい婢女に身を落として、最後に貴公子に見いだされる」です。
    虐待されている女の子にとって、希望は結婚しかないみたいな話ですね。

    最近では映画版『ハウルの動く城』がこの「継母を持つ少女が一旦お婆さんに姿を変えられ放浪し、たどり着いた場所でかまどの番などをし、好きな人の役に立つ知恵ある女であることを証明し、愛によってその優しさを美しく開花させ、貴公子と結ばれる」というパターンを描いていると思います。
    釜焚きとかかまどの番というのは、女の主な役目である他に、炎による変容とか、そういうものも象徴しているのでしょう。

    先ほどあげた『姥皮』のあらすじを、記しましょう。

    継母にいじめられ家を飛び出した姫は、夢枕に立った観音に身につけると老婆の姿になる「姥皮」をもらいます。それを着て旅に出て、行き着いた先の家で釜焚きの姥として雇われるが、そこの家の息子に若い娘だとばれ、その息子と結ばれて、ついには幸せになる。

    『ハウルの動く城』が公開されるかなり前に、『鉢かづき』やこの『姥皮』と『千と千尋の神隠し』の類似性について論じていた人がいるのですが、このゆら庵の人は次回作を予見したわけですね。そういつもりはなかったでしょうが。
    というか、『鉢かづき』の次に『姥皮』を撮る宮崎監督がベタですね。次はきっと『落窪物語』に似た話を撮るのでしょう(大嘘)。
    これらは、少女の通過儀礼の物語なので、当然、類似性はあるでしょうが、それに気付いたゆら庵の人はやはり鋭いでしょう。

    きっと宮崎監督の心の中には、永遠の少女が住んでいるのでしょう。そんな宮崎監督は、何度も何度も少女が美しく成長するおとぎ話を撮るのです。
    でも、ハウルにしろ、魔女の宅急便にしろ原作が「女性による少女の成長の物語」というところはやはり注目すべき点かもしれません。監督は高畑勲ですが、『おもひでぽろぽろ』も原作は女性です。宮崎監督本人から出力される少女は、やや気高くて現実の女性には共感されにくいですからね。千尋は少し年齢が低めだから、雰囲気は気高くないのかもしれませんが、やっていることは無欲の奉仕です。

    闘将!! 拉麺男(たたかえ!! ラーメンマン)1 JCS(7)

    とうとう、拉麺男の一巻が終わりました。
    このペースだと、拉麺男だけで3か月かかりそうで、ちょっと気が重いです。
    読んで下さっている皆様ありがとうございます。

    肉体競技場の巻

    [あらすじ]


    両腕を抑えられた格闘家の龍尾が、離せと叫んでいるところから、話は始まる。
    龍尾は王(ワン)の武術の教師として雇われる約束でここへ来た。だが王の本心は強い格闘家を自分の競技場の壁とすることだったのだ。
    王はかたわらの巨体の男、暗奴隷(アンドレ)にライターの火を付けて合図し、暗奴隷は王を捕らえて壁にたたきつける。そして龍尾は不思議な力で壁と一体化してしまう。
    王は暗奴隷に、この最後に残された柱には世界最強の男の肉体を使いたいと話す。
    場面は変わって、ラーメンマンと陳老師が寺で話している。
    ラーメンマンは破門も覚悟の上だといい、小さな女の子の愛鈴(アイリン)を伴い、寺を出ていき、シューマイも後を追う。
    再び場面変わって船の上、屈強な男達が次々に乗り込んでいる。
    毒狼拳蛾蛇虫、流星拳砲岩、千手孔雀拳の叉焼男、米国のヘビー級ボクサーロッキー・クレイ、ムエタイのチューチャイ、日本のプロレスラーカブキマン……王の開催する武術トーナメントの参加者達だった。
    その船に最後にラーメンマンが乗り込むと、周囲にどよめきがおこる。
    ラーメンマンの超人拳法は私闘を禁じているので、彼が金目当てにこのようなトーナメントに参加するとは思えなかったのだ。
    武術会場には106人の武術家が集められていた。
    競技場の人柱にふさわしい男がこれなら見つかりそうだと思っていた、王はラーメンマンの姿を見て驚くが、喜びもする。
    一次予選が終わり、チューチャイはあなたが賞金目当てでこんな大会に参加するとは、信じられない、とラーメンマンにいい、何か事情があるならお力になります、と言うが、ラーメンマンはわたしはあなたが考えるような立派な人間ではないと、背を向ける。
    夜中に目を覚ましたチューチャイは、ラーメンマンが、愛鈴やシューマイとどこかに行っていたことを知る。
    第1試合は蛾蛇虫が叉焼男に勝った。
    第2試合は、ラーメンマンVSカブキマンで、ラーメンマンの勝利だった。
    次は、チューチャイがロッキー・クレイに勝ち、第4試合は暗奴隷が一撃で、砲岩を即死させた。
    準決勝を明日に控えたその夜、ラーメンマン達はまたも抜け出す。
    競技場内に入り込み、壁の一部となった龍尾を発見する。龍尾は愛鈴の父親だったのだ。泣きじゃくる愛鈴を目の前に、ラーメンマンは龍尾に修業時代の恩返しがついにできなかったと悲しむ。
    そこへ王が部下を引き連れて現れる。この競技場を見たものは生かして返さないというのだ。
    だがラーメンマンの後をつけてきていた、チューチャイや蛾蛇虫や他の武術家たちが、王の部下を蹴り散らす。
    「王皇帝、きさまのたくらみはすべてきかせてもらったぜ!」
    そして、ラーメンマンは暗奴隷と対決し、烈火太陽脚で蹴り飛ばされた、暗奴隷の体がぶつかり、王は死に、自ら競技場の人柱となる。
    ラーメンマンの力によって、愛鈴の父親の敵は討たれたのだった。
                              <終>


    [解説]


    死んだはずのキャラがいきなり再登場していることや、蛾蛇虫の右腕が再生していることについては、何も言うまい。読者とゆで先生が気に入ったのだ。

    一話(ページ数からすると二話分の長さ)で、トーナメントが終わるなんて、なんてテンポがいいのだろう。

    貧しい生まれで礼儀正しいチューチャイは、この話で初登場だ。
    蛾蛇虫はここで、一気にキャラとしての地位をあげているね。
    しかし、強くて格好いい役割の男が「毒手の使い手」ってどうよ?
    苦労して身につけた技には違いないけれど、なんか卑怯な気もするが、キン肉マンでも特殊な技を使う人はたくさんいたね。

    この話の強い男の肉体で競技場を作るというネタだけど……これ、あまり他の作家では見ない表現だよね。あるとしたら伊藤潤二系のホラーだと思う。人で建物をつくるというだけなら、『銀河鉄道999』の機械の体となった人間達が、機械の星を作っている話があるが。
    ゆで先生の男の肉体に対する偏愛で全てを片づけてしまいたいが、それでは何も語ったことにならないので、考えてみよう。

    これって、コレクションだよね?
    似たようなことをしていたキャラとしてわたしが真っ先に思い浮かべるのは、SNKの格闘ゲーム『THE KING OF FIGHTERS’94』の「ルガール・バーンシュタイン」である。
    彼は有名格闘家を倒して技を盗み、更に死体を銅像だか石像だかに加工して飾るといった趣味の持ち主だった。彼が開いた格闘大会が「THE KING OF FIGHTERS’94」である。
    今にして思えば、ルガールのモデルはこの王という気がしなくもない。
    偉大だな、ゆで先生。
    しかし魚拓とか、剥製とか、狩った獲物の姿を己の力の証として残したいということ自体は、普通の欲望の気がする。

    自らを犠牲にする場合にしろ、他人に犠牲にされるにしろ、ゆで先生にとって「犠牲者」とは「肉体を犠牲にされた者」である。
    権力者とは他人の肉体を犠牲にし、他人を使役する者である。
    この話の王はまさにその典型で、とっても子供にわかりやすいといえば、わかりやすい。

    ラーメンマンでは、この後にも「人柱」の話が出てくる。犬操が一生懸命位牌の台を支えているのがそれだ。
    誰かがその肉体を犠牲にして何かを支えるというイメージが、ゆで先生にとっての「献身」なんでしょう。なんだか文字どおりだな。
    肉体という捧げもののイメージ自体は、人類にとって普遍のものである。
    ことは生け贄で神への愛、つまり信仰を表明する原始宗教に限らない。キリスト教なんて、磔にされた教祖の像を拝んでいるのだ。
    他者に肉体を犠牲にされた恨み、他者のために己や仲間の肉体を犠牲にする愛、これがゆで世界の人柱だか躯柱だかの背後にある感情だと思う。
    人がこういう神話を信じるのはたしかだ。

    でもなんでゆで世界では、ああいう表現のされ方をするのだろう?
    本人が男なので、「肉体を犠牲にする」を考えると、自分もそうである男の肉体を犠牲にするという方向に行く、というのがまずあがってくるだろう。
    もうひとつはゆで先生が求めている愛というのはつまり友情パワーなので、男の肉体をめぐる話になるということである。
    もうひとつはゆで先生にとって「若くて美しくてたくましい男の肉体」というのは、憧れであるということだろう。
    キン肉マンの作者が自分の容姿を卑下していると予測するのは、的外れではないだろう。ラーメンマンの作者だと考えても、スクラップ三太夫の作者だと考えても、それは同じ事だ。
    ならば、そういうものに対する羨望や所有欲というものを、ゆで先生が持っていても不思議ではなかろう。
    そしてそれはおそらく、ボディビルをしたり、今から武道を習ったり、自分が薔薇の中で肉体的責め苦を受けている写真集を出したりして癒されるものではない気がする。ちなみにこれは三島由紀夫の話だ。この人も自己の肉体に関する思いこみと、男の肉体に対する執着の強い人だった。
    強い肉体を羨望するゆで先生にとっての最大の癒しは「キン肉マンを愛読して、この道を選びました」というレスラーや格闘家の存在だろう。インタビューとか読んでそう思う。
    そういう意味では、ゆで先生は「うまくいってる」気がする。

    わたしがゆで先生に関して、肉体に関する思いこみが強いと判断する理由のひとつは、以下のインタビューである。

    --おふたりが初めて出会った時のお互いの印象は?

    中井(作画) 僕は小学4年生の時、相棒の小学生に転校したんです。それで、体力測定でソフトボール投げがあったんですが、めちゃめちゃボールを投げられないんですよ。「こんなにボール投げられない人がおんの!?」っていう、それが最初の印象(笑)

    嶋田(原作) 球技はアカンね。笑われたがる性格だから、まわりはみんなギャグだと思ってたけど、僕は真剣やったね(笑)

    プレイボーイ増刊 『キン肉マン&II世 激闘列伝』 2004年8月20日 参照

    自分の肉体に関して思いこみが先行する子供は、決してスポーツの上手い子供にはならない。彼の中枢神経は抹消神経からのフィードバックを無視し、一方的に命令する。
    言い換えるなら、普通の子供は最初にボールを投げたときの体の感じを覚え、脳はその情報を参考に出力を調整する。最初が失敗なら、次は力のいれ方や腕の角度を変えて投げ、それが上手く行けば、そのように投げ続ける。
    たいがいの子供は無意識のうちにそうする。
    だが、ゆで先生(原作)それができない子供だったのだろう。
    そういう子供がスポーツ上手になるとしたら、彼の誤解や力みを見抜き、上手く、丁寧に指導する優秀な師匠が必要だが、ゆで先生は若き日についにそれに出会わなかった。

    ゆで先生(原作)は上述のインタビューで中学生時代、友達同士でやるプロレスで、組み技は得意だったと述べている。それはやはり好きだからなのだろう。だが、それは組み技の時は、自分や相手の肉体の感触を丁寧に感じていたから、というのもあるのかもしれない。
    いや、本気で。それができなかったら、いくら脳内にプロレスの名場面が叩き込まれていても、そんなもの上手くならない。
    それがやはり後のキン肉マンに、反映してくるのだろう。

    肉体に関して思いこみが先行しがちであると考えると、バトルまんがであるにも関わらず、ゆでたまご先生のまんがの中に「身体が技術を納得する」瞬間が乏しいのかがわかる気がする。
    「そうか、キン肉バスターとはこうやって相手を固めるものなんだ」とは、万太郎は言わないのだ。そんなまんがの中の火事場のクソ力というのは、「身体に関する思いこみを、感情が吹き飛ばす瞬間」なのだ。

    なぜゆでたまご先生は、男の肉体にこだわるのか?
    本人にとってそれが「欠落」だからである。
    これがわたしの考える第一の答えだ。


    2006年10月 追記

    ゆで先生(原作)がキン肉マンII世の連載直前あたりから、格闘技を習っていたことが、インタビューで判明しました。三島由紀夫論でも読もうかな……。


    闘将!! 拉麺男(たたかえ!! ラーメンマン)1 JCS(6)

    本当にこのブログはラーメンマンの最終巻までたどり着くのでしょうか……。
    ということで、まだまだ一巻です。

    暗闇をうて!! の巻

    [あらすじ]

    ラーメンマンは闘龍極意書を狙い、彼に挑んできた男と対峙していた。彼は相手を頭骨錐揉脚で、あっさりと返り討ちにした。だが人を殺したラーメンマンの心は晴れない。
    どうしてみんな、超人拳法に入門して修行し、極意書を受け継ぐことではなく、奪い取ることだけを考えるのかと、彼は嘆く。
    シューマイはラーメンマンは、少し疲れているのだと慰める。
    そこへラーメンマンの師匠、陳老師が現れる。
    ラーメンマンは老師に苦悩を訴えるが、老師はおまえはシューマイの言う通り疲れているだけだ、盆絵でもやらないか、気が落ちつくという。
    老師の作った村のミニチュアを見て、シューマイは感心するが、ラーメンマンは目もくれずに、憤り続けている。
    「老師、きいてください! わたしは人びとが信じられなくなりました。みんなあまりにも自分勝手すぎます……この世は闇です」
    それを聞いた老師はある村をたずねてその病を治せ、それでも気持ちが変わっていなかったら、極意書を捨てろ、という。
    霧の中、ラーメンマン達の前に突然出現したこの村は、太陽の昇らない村だった。
    暗闇の中、人々は怯えきって暮らしていた。そこでラーメンマンは比丹(ピータン)と麗羅(レイラ)の兄妹の家に泊めてもらう。
    だがラーメンマンは比丹が闘龍極意書を狙っているような気がしてならない。
    夜中に起きたシューマイは、子供が連れられていくのを見る。
    この村を支配する黒色魔王は暗闇が好きで、子供達の明るい笑顔をも嫌い、20になるまで子供達を洞窟に閉じこめているのだと、麗羅は説明する。
    そしてシューマイを、無理矢理袋に入れて連れ去ってしまう。
    話を聞いていたラーメンマンは、麗羅がシューマイを黒色魔王に渡すつもりだろうと後を追う。そして止める比丹に、おまえもグルなんだろうと闘龍極意書を投げつけて去る。
    そして洞窟の近くまで来たラーメンマンはシューマイに出会う。
    麗羅の意図は彼を安全なところにかくまうことだったのだ。
    比丹と麗羅に誤解をわびたラーメンマンは、村の人々のために闘うことを決意する。
    そしてラーメンマンたちは子供達を連れて脱走するが、落とし穴に落ちてしまう。
    落とし穴の底で、ラーメンマンは竹の切り株を見つける。
    それは村をかこむ山の隙間から差し込んだ光によって、生きながらえた竹だった。
    それにヒントを得て、ラーメンマンは力任せに大地を割る。
    それによって起きた地震で、山が崩れ日の光が差し込む。
    日の光で伸びた竹は黒色魔王の部下達に突き刺さり、黒色魔王は烈火太陽脚で黒色魔王に止めを刺す。
    そして村の人たちに笑顔が戻ったのだった。
    「どうじゃな、やはりこの世は闇かな?」
    「老師!!」
    「いいえ……努力しだいで太陽を昇らせることも可能です!」
    そう答えたラーメンマンの目の前から村は消え、極意書があの村によく似た地形の盆絵の上においてあった。
                              <終>


    [解説]

    闘龍極意書の、主人公が誰もが欲しがるようなものを持っているという設定は、闘いの続く少年まんがとしていい設定だと思う。

    ところで、竹に人が突き刺さるという場面だが、実はこれお手本があるのではないか。
    普通、竹は竹やり状態では生えていないので、人は竹に刺さらない。
    竹の先は細く、笹の葉が生えている。そもそも竹はやわらかなタケノコとして生えてくる。
    だがコナン・ドイルの『失われた世界』(ロストワールド)には、原住民が敵をがけから放り投げると、その下の竹薮の竹に刺さるという残虐描写がある。
    日本人の常識では、ありえない。
    100年前に生きたドイルはイギリスに輸入されてきた状態の、切った竹しか知らなかったのだろう。
    それをゆで先生は読んでしまって、日本人なのにこういう話を描いたんだろうと思う。
    素で地面から竹槍が生えてくる場面を描きそうなゆで先生でもあるが、『失われた世界』を読んでいそうな人でもあるので、こう推測した。


    おとぎばなしが基本のゆで先生のまんがの中でも、とりわけおとぎ話らしいのがこの回だ。
    この話は師が舞台を用意し、その世界の中で弟子がヒーローの役割を演じるという点では、TRPG(テーブルトークロールプレイング)のゲームマスターと、プレイヤーのようである。
    だが、夢や空想の世界で何か事件が起こるという話はよくあるが、舞台が盆絵というセンスがすごい。教養がありつつ、空想世界にも手触りや目に見えることを求める、子供の感性というか。
    キン消しがビックリマンシールやカードダスに置き変わっていくような時代の変化というものはあって、それは手で遊ぶ世界から、頭で遊ぶ世界への以降なんだろう。

    この盆絵、日本では盆石あるいは盆景といい、伝統芸術のうちに数えられている。
    ヤフーにも盆石カテゴリがある。
    この話はなんだか箱庭療法を思わせる。
    箱庭療法というのは、患者の心の中の世界を表現してもらう手段として、心理療法士が用いるものだ。
    患者に絵を描いて下さいとか文章を書いて下さいと言っても、下手だからと後込みされることも多いのでそうするのだという。

    箱庭療法では湿った砂と乾いた砂の入った箱の上に、人や動物や建物などのミニチュアを並べていく。箱の底は水色に塗られていて、箱の中に川や海も作れるようになっている。

    具体例を心理療法士の河合隼雄先生の本『心理学個人授業』(南伸坊・河合隼雄)から引用する。

    「きれいに庭を作ったあと、水を下さいと言うので渡してやると、洪水だああと言って、きれいに作った庭を台無しにした子があります。この子は大変な家庭の子でした」
    「蛇を使った人がいる。箱に蛇をこうして置いて、ノコギリを貸して下さい、と言う。どうするのかと思って見ていると、蛇を輪切りにしてしまった」

    箱庭療法なら子供も遊びながら、河合先生に言葉にしにくい己の胸の内を語れるというわけだ。それを作ることによって、作った者が自ら癒されるという点が大切なのだという。

    きっと、キン消しというのは日本全国の悩める小学生が、お友達とお砂場で夢を語り合うための箱庭ツールでもあったんだね。
    いや、マジで見る人が見ればキン消し遊びだって、その子供の内面を語っていると思うよ。
    でもキン消しでどんなお話を作っていたか、人は忘れて大人になるんだろうな。
    まあ、キン消しのテリーマンの手足をカッターやはさみで切り落とした人は、手を挙げて下さいと言うことで。それは攻撃性の発露か、喪失の追体験か。

    ということで、いい大人になってついキン消しや食玩を集めてしまった人は、棚に飾るとか、未開封新品とか言わないで、海洋堂のツチノコ対ブロッケンJrとかやって遊ぶと、本当に小学生時代の気持ちに戻れるでしょう。
    子供ってそういうことするよね。

    面白そうだね……箱と砂とキン消しでも用意するか。
    んで、キン消しのチェックを砂に埋めて遊ぶ。
    (数分間自己分析)
    ああ、なんかとっても深層心理が表れてそう。
    人形を砂に埋めたら普通それは埋葬っていわないか? その後で砂から出せば誕生だよな。原作通りだ。
    深層心理までゆでに毒されているから、砂とチェックのキン消しで真っ先に「埋める」とか思いつくのか。「死と再生」の儀式をキン消しにも投影してしまうような心境なのか。それとも何か「隠したい」「忘れたい」ことでもあるのか。(そりゃ、隠したいこと、忘れたいことはイロイロと)

    そういえば、アメリカにキン消しが進出したとき、アメリカのフィギュアはみんな大きいので、キン消しは珍しいらしいと、ゆで先生がコメントしてたね。
    アメリカ人は対決させて、日本人は箱庭をつくるのか、日本人は小さいものを集めるのが好きなのか、謎だ。


    ゆでたまご先生がこういう話を考えるような人だから、キン消しはヒットしたのかなあ、とも思うラーメンマン第6話でした。

    闘将!! 拉麺男(たたかえ!! ラーメンマン)1 JCS(5)

    それでは、第5話です。


    敵討ち!! の巻

    ラーメンマンとシューマイは、とある村の市場のにぎわいを眺めていた。
    そこへ騒ぎが起こる。
    乱暴者が村人ともめ事を起こしたのである。
    武器を持つ村人たちの前で、乱暴者達のボスらしい男がカメを天に投げあげ、それを蹴り割る。その破片が村人達を襲い、彼らは倒れる。
    それは散弾流星脚、男は流星拳の使い手、砲岩(ホーガン)だった。
    その様子を側で呆然と見ていたラーメンマンは、彼を砲岩と勘違いした男に襲われる。
    ラーメンマンとしって、無礼をわびたその男の名はハルマキと言った。
    彼はラーメンマン達に御馳走してくれる。その理由を問うラーメンマンに、ハルマキは殺された妻の敵討ちに力を貸して下さいと頼む。
    ラーメンマンは断るが、ハルマキは独りで砲岩に向かっていって倒される。
    「ギョーザよ。よーく、目にやきつけておけ!」「あれがおまえの父と母の敵の顔だ!!」
    そしてラーメンマンはギョーザに厳しい稽古をつけ、ギョーザは必死でがんばり、泣かなくなり、ラーメンマンの攻撃もすばやくかわせるようになった。
    そんなギョーザにラーメンマンは、地面にはうアリが見えれば勝てるという。
    そして敵討ちの場面に望む、ギョーザとラーメンマン(とシューマイ)。
    砲岩にラーメンマンはあくまでギョーザに父の敵を討たせる、自分は手を出さないと言う。
    動揺して砲岩にやられっぱなしのギョーザを見て、ラーメンマンはギョーザにアリを見つけろと叫ぶ、ギョーザは地にはうアリを見つけ、落ちつきを取り戻す。
    実践で練習の時の力がすべて出せるやつは、スーパーマンだ。アリを見ろと言ったのは暗示で、全ての力をギョーザに出させるためだと、ラーメンマンはシューマイに説明する。
    ギョーザはカメの破片を全てかわし、そのひとつを蹴り返して、砲岩の胸に突き刺す。
    見事に父の敵を討ったギョーザは、孤児として優しいおばさんにひきとられる。
    ラーメンマン達はそれを微笑んで見送るのだった。
                                <終>


    男が悪党に殺された妻の敵を討とうとして殺され、息子が両親の敵を討つという、武道ものの典型なのが、この回です。
    雨の中、死を覚悟して砲岩に挑むハルマキの切なさや、特訓で少しづつ強くなっていくギョーザの男の子としての成長が美しい回です。

    しかしもし、たまたまその場にアリがいなかったらどうするんでしょう。ああ、場所を指定したのは、きっとラーメンマン達のがわなんですね。

    暗示で勝つとか、ゆで世界では「思いこみで勝つ」話が多いような気がします。
    まあ、作者がとってもとっても思いこみの強そうな人なので、そうなるんでしょう。でもゆで先生がジャンプの頂点に立ったように、努力と思いこみで得られる勝利というのも絶対ありますよね。

    闘将!! 拉麺男(たたかえ!! ラーメンマン)1 JCS(4)

    はーい、本日は第4話目です。

    極意書の秘密!! の巻

    春夏秋冬。季節の移り変わる中、二人の旅は続く。
    ラーメンマンは日々武芸の稽古に励み、蟷螂拳、酔拳、鷹拳、水面両断拳と覚えた技をシューマイの前で次々に披露する。
    ラーメンマンの磨き抜かれた技にシューマイは感心するが、ラーメンマンは壁に突き当たっていた。
    ラーメンマンが老師から伝承された極意書には、白紙の部分があり、その意味は修行を積めばわかるはずのものだった。だがラーメンマンにはいまだにその謎が解けなかったのだ。
    そこへ老師が現れ、シューマイの頼みで老師はラーメンマンと手合わせをする。
    そして老師の気迫にラーメンマンは押されてしまい、己の未熟に打ちのめされる。
    ラーメンマンは極意書を川に投げ込もうとして、シューマイに止められるが、極意書はそのまま川の中へ落ちてしまう。
    その日の夜遅く二人は、近くの村に泊まろうとする。
    その村は鷹爪拳の使い手、筋具金具・武狼帝(キングコング・ブロディ)によって荒らされていた。ラーメンマンはそこで父の敵を討ってと少年にせがまれる。
    村人達もラーメンマンに期待するが、彼は迷いから武狼帝に負けてしまう。
    武狼帝は極意書を出せと迫り、シューマイは川に落としたと泣くが、武狼帝は二人を牢に入れる。
    それを見ていた先ほどの少年、タンメンはこっそり牢に食事を持ってくる。
    そして武狼帝に見つかり、殴られる。に…肉まん…とつぶやき苦しむタンメンを見て、シューマイが肉まんを割ると中から川に落としたはずの闘龍極意書が出てくる。タンメンが苦労して拾ってきてくれたのだ。
    それを見てシューマイはラーメンマンに迫る。
    「ラーメンマン、修行ってなんですか。困ってる人たちをみすてることなんですか!? 白紙の意味をとくことは人の命よりも大切なことなんですか」
    その言葉を聞いて、ラーメンマンは再度闘う決意をする。
    武狼帝と対決し、タンメンや村人たちのうらみと言って、力を込めて相手を引きちぎるラーメンマン。
    闘いの際に、道着として身にまとっていた、極意書がラーメンマンを助け、武狼帝の血に染まる。
    この極意書は代々の伝承者の魂で織られているので、変幻自在なのだ。
    その白紙の部分に血で「技」という字が浮かび上がる。
    そうか、白紙には新たに自分が見いだした技を書くのだと悟るラーメンマン。
    そこへ師が現れて言う。新しい技は機矢滅留・苦楽血(キャメル・クラッチ)と名付けるがよいと。そして極意書は元々は白紙だったのだ、持ち主達が次々に己の技を書き記して、102芸が記された巻物になったのだと言い残して去っていく。



    他人から受け継いだものは大切に、だがそれには限界がある。先人を自分自身の創造性によって越え、それを後に伝えていけという、いい話である。
    苦悩から創造に至る過程がよく描けている。
    しかしここでラーメンマンが発揮する「自分らしさ」というのは、相手の胴体を引きちぎるキャメル・クラッチなので、ラーメンマンらしさというのは、残虐さという事にならないか。まあ、キン肉マン本編では最初残虐超人として登場したのだし、それで正しいと言えば正しいのだが。
    武狼帝を惨殺したその次のコマで、彼は平然と返り血を顔に受けている。
    そしてその後でこれはわたしがやったのか、とかいうゆでキャラお得意の火事場のクソ力発言をする。
    憤りを込めて暴力行為に及ぶのは、歌舞伎以来の日本の娯楽作品の伝統でもあるだろう。それを歌舞伎では荒事という。プロレスでは……力道山チョップ?
    がまんを重ねた主人公が我を忘れて超人的パワーを発揮し、悪役を懲らしめるというお話は昔から人気だった。だがぶちぎれる者の美というのも、忍耐や正義感が先行してこそのものだろう。

    わたしは人生における困難を乗り越える強さというものを、残虐に表現することもありだとは思う。人は何をも恨まずに、生きてはいけないのだろうから。

    闘将!! 拉麺男(たたかえ!! ラーメンマン)1 JCS(3)

    引き続きラーメンマン第一巻を解説します。

    闘龍極意書の巻

    二人は修行の旅を続けていた。
    ある日、基礎訓練ばかりの日々にうんざりしたシューマイは、ラーメンマンの大切な極意書を勝手に盗み読みしてしまう。それに気付いてシューマイを叱るラーメンマン。そしてラーメンマンはかつて自分には兄弟子がいて、自分より強い兄弟子が極意書を伝承するはずだったとシューマイに語る。彼こと叉焼男(チャーシューメン)は強く、千手孔雀拳の使い手だった。だがことあるごとにラーメンマンをいびっていた。そして師匠はなぜか負けたラーメンマンを伝承者とする。
    ラーメンマンが寝ている間に、シューマイはまた勝手に極意書を借りる。その時再び現れた叉焼男が、極意書の半分を奪う。
    伝承者の証である極意書をとられた以上、自分は二度と拳法家として闘うことはできないと、ラーメンマンは自らの手を縛る。
    極意書を取り返すために、叉焼男を追うシューマイとラーメンマン。叉焼男は極意書を悪用し、村人を石に変えたり、ラーメンマン達に炎の幻覚を見せたりする。彼の罠にかかってシューマイは人質に取られる。
    どうか極意書を返してくれと自らの両手を縛ったまま、叉焼男を説得するラーメンマン。
    その言葉に耳を貸さず、叉焼男は人質のシューマイを痛めつける。
    自ら両手の紐を切り、ラーメンマンは叉焼男の二人の部下を倒す。
    そしてラーメンマンは極意書の残りの半分を叉焼男に渡す。だがそれは白紙だった。
    本物を出せと怒る叉焼男に、ラーメンマンは理論ばっかり追って、この白紙の意味が読みとれないようなあなただから、老師はあなたを選ばなかったのだという。
    そして極意書を叉焼男の顔に投げつけて、彼を命奪崩壊拳で倒し、シューマイを連れて帰る。


    最後は掟より人情、というゆでたまご先生らしいまとめ方の回である。
    ゆでヒーローはどうも「その場にあるものを利用する」「ひらめきで勝つ」パターンが多いような気がする。

    実はこのまんがを読む前、シューマイの性格が悪すぎる、みたいな評判を聞いた。
    たしかにわがままで生意気で、よくラーメンマンの足をひっぱっている。
    しかし、ラーメンマンの旅の話はラーメンマンがシューマイに生き方を教える話なので、シューマイは子供っぽい方がいい。最初からいい子だったら、教えることがない。それでもシューマイはラーメンマンを心底から尊敬しているのだ。

    『オペラ座の怪人』 2004年製作

    原作「オペラ座の怪人」…ガストン・ルルー
    製作・作曲・脚本…アンドリュー・ロイド=ウェバー
    監督・脚本…ジョエル・シュマッカー
    ファントム…ジェラルド・バトラー
    クリスティーヌ…エミー・ロッサム
    ラウル…パトリック・ウィルソン

    オペラ座の怪人、ファントムと呼ばれる男は醜い顔に生まれつき、音楽と建築の才能に恵まれながらも、オペラ座の地下深くで暮らしていた。ある日彼は美しい少女の歌声に才能を感じ、顔と正体を隠したまま彼女の音楽の教師となる。早くに父を亡くした少女は、その謎の人物を天国の父の送ってくれた音楽の天使だと思いこむ。父の代理として怪人を慕うクリスティーヌだが、彼女がその歌で主役の座を射止めた頃から、二人の関係は揺らぎ始める。それは、クリスティーヌがファントムの仮面を剥いだときに決定的になる。

    ファントムの顔にはケロイド状の傷があり、幼き日に彼はサーカスで見世物にされていた。傷深い者は恨み深い者である。体の傷は周囲の扱いによって、心の傷へと容易に転嫁し、それは時に憎しみにかられた狂気へと変貌する。
    だが、傷深い者には時に他者を魅了する才能が宿る。
    屈辱は高みへの憧れを生むからだ。
    そして孤独な魂には愛を求める心が宿り、時にそれは歌となって他者の心を震わす。

    ファントムはその音楽で孤独なクリスティーヌを魅了し、その歌でクリスティーヌはラウルに愛される。
    そしてまた怪人に愛されたというクリスティーヌの不幸は、ラウルの義侠心を刺激し、彼は怪人から彼女を守ることを誓う。

    最終的にクリスティーヌがラウルを選んだことについては、少女の父親の影からの自立であるかもしれない。だが、芸術的才能がしばしルサンチマンとしかいいようがないものに支えられていることも確かで、ファントムは典型的にそれだ。恨み深い者と人生を共にしないのは、人間的幸福を求めるなら、賢明な選択であろう。

    わたしはかつて原作を読み、劇団四季の舞台を見、劇団四季のCDも持っているので、新鮮な驚きというものはあまりなかった。そんなわたしだが、この映画のスタッフロールの時は、ほんとうにぞっとした。映画が終わった後で流れるのは、Learn To Be Lonelyという、本来怪人が己の孤独を歌い上げる曲だ。ドラマには必要がないということで、スタッフロールの際に流されることになった。荒野に独り立つ、愛を夢見ぬ孤独な子供よ……という感じの歌詞で、ものすごく印象の冷たい歌だ。
    現代的な曲といえなくもない。だがクリスティーヌ(元妻、サラ・ブライトマン)に去られたこのファントム(アンドリュー・ロイド=ウェバー)の孤独は、未だ癒されていないのかと、わたしは思ったのだ。

    ところで、この映画はクリスティーヌ役の演技がいい。わたしは日本人の解釈でしか見た(聞いた)ことがなかったせいか、天使はクリスティーヌにとって夢ではなくて、信仰なのだとエミー・ロッサムの演技を見て初めて気がついた。