ラーメンマンはどこへ消えた?

    ドルフィントライアングルは「イルカの曲芸」と「バミューダトライアングル」と「野生生物は死期を悟ると姿を消す」が混ざったものだと思います。野生生物の死については、昔から色々な伝説があります。最近では、例えば「カラスは死ぬと死体が消滅するという説」が、有名ですね。カラスの専門家はよくそういう質問を、一般人にされるそうです。詳しくは、「カラスの死骸はなぜ見あたらないのか? 」矢追 純一 (著)や「カラス、なぜ襲う」松田道生(著)という本をどーぞ。
    なんで二世で、いきなりそんなものが出てくるかというと、『キン肉マンII世』究極のタッグ編では、まだ超人墓場送りになった超人がいないので、新たな死後の世界を作ろうとしているのではないかと。
    超人墓場があると色々とややこしいとか、お考えなんでしょうか。
    しかし、ドルフィントライアングルに入った超人は、どこにいくんでしょう。死体が消えるということは、超人は神か悪魔のように、向こうの世界から来た霊的存在なんでしょうか?
    単に「実は生きていた」の伏線かもしれませんし、あまり深く突っ込まないでおきます。
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    『ゆうれい小僧がやってきた! 1』「危うし! ゆうれい小僧の巻」

    『ゆうれい小僧がやってきた!』に、「蝦蟇あやしの心臓は、蝦蟇笛にある」という話があります。

    彼の心臓は彼の体の中にはなかった。その心臓を探し出せば、彼を殺せる、あるいは生き返らせることができる。というパターンがメルヒェンや神話にはよくあります。
    古くはエジプト神話にも存在する「体外の心臓」というモチーフですが、多くの人は『ドラえもん のび太の魔界大冒険』を思い出すのではないでしょうか?
    魔王の心臓が宇宙の星の海に隠してあるという、あの話です。
    さて、この話を藤子不二夫はどこで知ったのでしょう?
    神話や民話を記した本か、海外の児童文学か。
    『ハウルの動く城』もこのパターンです。

    ゆで先生は、思いつきでそうアレンジしたのかもしれませんが、蝦蟇あやしのように、心臓が本人に近い場所にあるのは「古典的」ではありません。『ドラえもん のび太の魔界大冒険』みたいに、「遠い遠い場所」にあるのが、神話や民話の典型です。
    ということは、現代の作家が元?

    『ゆうれい小僧がやってきた! 2』「奇跡をよぶ雨! の巻」

    ゆでたまご先生の『ゆうれい小僧がやってきた! 2』「奇跡をよぶ雨! の巻」で、主人公達が、枯れ木に姿を変えられてしまうが、雨で枯れ木に茸が生えて、その茸から、主人公達が再生するという話がありました。
    これは水木しげる先生の影響でしょう。

    水木先生は、吸血木の話を何度か描いておられますが、今回は小学館文庫版 『墓場の鬼太郎 6』に収録されている、「吸血木」の話を参考にします。

    これは鬼太郎が寝ている間に、何者かが吸血木の種を植え付け、鬼太郎が木になってしまうという話です。
    やがてその木に花が咲き、実が生って、その実から鬼太郎が再び生まれて来ます。

    似たような話は、西洋の民話にもあります。

    『イタリア民話集 下』に載っている、「三つの石榴の愛」という話です。
    石榴(ざくろ)の実から娘が生まれ、その美しさを妬んだ醜い女に殺されます。大地に落ちたその血から、小鳩が生まれ、その小鳩が殺されるとその血から、石榴の木が生えました。その実から、娘は再生して、王子と結ばれました。

    水木先生は、どこかで似たような話を読んだのでしょう。桃太郎や瓜子姫を初めとして、人が植物の実から生まれてくる話は多いです。
    本人が再生する話は、そう多くはないと思いますが、水木先生は博学ですから。

    ゆで先生は、水木先生の漫画を読んだのでしょう。アニメを見たという可能性もありますが。
    しかし、元の話では、木の実であったものが、茸に置き換わっています。
    人が木の実から生まれてくる話は数あれど、木の子から生まれてくる話は浅学にして存じません。
    ゆで先生が花実ではなく、茸にしたのは、水木先生そのまんまではよろしくないと判断して、オリジナリティを追求してみたのかもしれません。男らしさを追求したのかもしれませんが。

    水木先生の話では、数日の時間をかけて花が咲き、実が育ちます。
    ゆで先生の話では、雨が降るとまたたくまに茸が生えます。
    この速度の問題が、実から茸への置き換えの際の、ひとつのポイントでしょう。
    一日で花が咲き実が生る木はなくとも、一日で生える茸はいくらでもあります。

    種から木が生え、花が咲き、実が生り、その中に種があり、またそこから……という死と再生のイメージは、人類普遍なのでしょう。

    超人とお国柄

    エスニックジョークという、人種や民族の特徴を笑うジョークがあります。
    典型的な人物像は、こんな感じです。


    アメリカ人=独善的、傲慢、自慢好き
    イギリス人=紳士、堅苦しい
    ドイツ人=真面目
    フランス人=好色、グルメ
    イタリア人=情熱的
    ロシア人=酒好き、物がない

    参考『世界の日本人ジョーク集

    これは、どちらかというと伝説超人のみなさんの方が、当てはまりますね。

    登場したばかりのテリーマンとかは、まさにアメリカ人ですし、キッドもちょっとそれっぽい。
    イギリス紳士のロビンマスク、真面目なブロッケンJrとその真面目な弟子のジェイド。
    イタリアは、スカーフェイスの出身国です。情熱的といえなくもありません。カニベースの再挑戦は、情熱ではなく、執念ですよね。

    貧しさの中に育ち、『スクラップ三太夫』で飲んだくれていたウォーズマンとかは、とてもロシア的です。

    ゆで作品はエスニックジョーク並にステレオタイプ、という話でした。

    『ゆうれい小僧がやってきた』のMr.ハロウィン

    ゆうれい小僧がやってきた』に登場するMr.ハロウィン。呪文はトリック・オア・トリート。頭がハロウィンのかぼちゃの西洋妖怪です。
    この妖怪、我こそは童話のシンデレラの中で、シンデレラを乗せて宮殿まで送り届けたかぼちゃ馬車の末裔、とか言って馬車に変身して主人公をひき殺そうとします。

    Mr.ハロウィンは、最初「真夜中を知らせる時の鐘で、魔法が解けるので、夜明け前に鳴くニワトリを鳴かせて、真夜中だということにしよう」という話だったのですが、結局「夜明けと共に鳴くニワトリを鳴かせるために、ニワトリを温める」という話になっていました。

    ちなみに、シンデレラは最も有名なメルヒェンのひとつで様々なバリエーションがあり、日本や中国にまで同じ様な話があります。

    12時の鐘とカボチャの馬車は、ペロー童話のシンデレラ(サンドリヨン)に登場します。ディズニーもこれを採用しました。
    グリム童話版のシンデレラ(灰かぶり)は、馬車に乗らず、夕暮れに帰ります。

    ゆでたまご先生は、「真夜中になると魔法が解ける」タイプの話を下敷きにしてかき始め、結論として「夜明けと共に魔物が去る」という古い信仰を採用したのでしょう。みんなが協力してニワトリを温めているのは、面白かったですけれど。

    シンデレラが12時前に帰らなければならないのは、「嫁入り前の娘が男と共に朝を迎えてはならない」からでしょう。魔法で美しく装って、王子とベッドを共にしたりしたら、それは誘惑する魔女ってことになりませんか? そして朝の光の下で見ると、化粧のはげた女が一人。
    幼いときは、12時の鐘についてなんとなく「魔法って儚いものなんだ」とか思ってましたが、こういうことのような気がします。清らかな者の魔法は夜の前に消え、悪しき者の魔法は朝に消えるのですね。

    ペロー童話版のシンデレラは、魔法使いのおばあさん(名付け親)に真夜中前に帰るように言いつけられますが、夕暮れとともに家に帰ろうとする、グリム童話版のシンデレラは、本人の判断です。継母達が家に帰ってきたときに、シンデレラがいなかったら、厳しく叱られることは間違いありません。
    グリム童話版はシンデレラと王子の駆け引きその他が面白いので、興味のある方はご一読をお勧めします。